突然春は跳ねる #13

 風林火山は武田信玄だった。甲斐の国は山梨県。それだけ知って頭が良くなった気がする。
 そのおかげではないだろうけど、ここ数日は調子が良くて今日も気持ち良く走れた。そんな私とは正反対に部員がまた何人も体調を悪くしてる。部活の休憩が増えたし帰宅時間も早くなった。これからもっと暑くなるのにどうなってしまうんだろう。

「お帰り、お疲れぃ」
「……ただいま、お疲れ。何しに来たの?」
 家に着くとリビングのソファーで朋律とものりが紅茶を飲んでくつろいでいた。珍しくカジュアルなスーツ姿だ。
 朋律は通ってる大学の近くで一人暮らししている。家まで二時間近くかかるのにしょっちゅう帰ってくる。バイトもあるし忙しそうなんだけど。
「何しにって……今日は結婚記念日ですけど……」
「あぁ……」
 すっかり忘れていた。昔は祝っていたけど私も朋律も大きくなるにつれ夫婦でささやかに乾杯するだけの日になったらしい。それが数年前から再び祝うようになって私は毎年忘れてる。忘れるというか覚えられないんだと思う。
 朋律は静かにティーカップを置いた。
「プレゼント用意してある?」
 今日が結婚記念日だって今知ったんだ。準備してるわけがない。
「なんにも……」
「じゃあ今から花でも買いに行こう。まだ間に合う」
「帰って来たばかりなんだけど。シャワー浴びたい」
「お前なぁ」
「花なんて喜ぶかな」
「比呂子が選んだのならなんでも喜ぶよ。あの人たちは」
 お祝いしたい気持ちはちゃんとある。だけどとにかく汗を流したかった。
「十五分だけ待っててやる」
「余裕!」
 パパッと十分くらいで風呂から上がりジャージに着替えて車に乗った。
「髪乾かした?」
「夏はすぐ乾くよ」
「お父さんの車なんだからびしょびしょのまま乗るなよ」
 朋律は大学生になってすぐに運転免許を取った。たまにお父さんの車をこうして借りてドライブしてる。
「部活大変?」
「んー。まぁまぁ。頑張ってはいる」
「なんだか痩せたように見える。ちゃんと食べてる? 同じのばかり食べてない?」
「しっかり食べてるよ。引き締まったって言ってほしい」
「失礼しました」

 駅前におしゃれな花屋がある。そこで小さい花束を二つ作ってもらうことにした。
「お母さんって何色が好きだっけ? ピンク?」
「うん、ピンクとかオレンジ。暖色系」
「お父さんは?」
「お揃いで大丈夫」
 私は花に詳しくないからそんな色のかわいい花を適当に選んだ。後は店員さんに任せる。支払いは朋律頼み。
「ごめんね」
「出世払いだ」
 花束を作ってもらってる間に他の花を見ていた。
 もし長山さんに花束を渡すとしたらどんなのがいいんだろう。緑は葉っぱのイメージだけど緑色の花もあるのかな。カラフルなブーケなら喜んでもらえるだろうか。
「朋律は何色が好き?」
「白」
「そうなんだ」
「比呂子は薄い色だな。パステルカラーって言うのかな」
「なんで知ってるの⁉」
 朋律は笑って何も言わない。そのうちに花束は完成して私たちは家へ戻った。

「今年は寿司だぞ」
「おー!」
 去年はレストランでお祝いした。ステーキがすごく美味しかったけど物足りなかった。お寿司は美味しい上に好きな量を食べられるから大好き。
「お母さんとお父さんは会社から店に行くって。俺たちはもう少し時間潰してから家を出よう」
「どれくらい?」
「三十分経ったら行くか」
「服、これじゃ変だよね?」
 朋律もいつもと違うよそ行きの格好だし、回らない寿司屋にジャージは不釣り合いだろう。
「俺が入学祝いにあげたやつ着て行きなよ」
 ここ数年、記念日には決まったワンピースを着てたけど中学でどんどん背が伸びてついにサイズが合わなくなった。そしたら朋律が新しいのを選んで買ってくれた。
 紺のシンプルな夏用のワンピース。もらった時に着たっきりだ。かわいいけど着る機会はあまりない。
 私は部屋着のジャージからそれに着替えた。
「おお! やっぱり似合うね。俺ってセンスいいなぁ」
「朋律はマメだね。私は人の誕生日とか覚えられないからすごいと思うよ」
「あー……」
 朋律は少し困った顔をした。変なこと言ったつもりはない。
「俺が日付覚えるの得意ってのもあるんだけど、なんかさ、うちって他の家と違うんだよな。普通じゃないって言うか」
「普通じゃない? 変なの? どこが?」
「違う違う! 言葉を間違えた。理想的じゃないって言った方が正しいな」
 別の言葉で説明されても私には理解できない。
「俺の理想。小さい時、誕生日に四人でケーキ食べただろ? プレゼントもくれて。それが今では『欲しい物、これで買いなさい』って。つまんないじゃん」
 現金は効率的でいいと私は思う。プレゼントもらってわくわくしながら開けるのも楽しいけど。
「うちみたいな家庭は世の中にたくさんあるんだろうけど、友達の家族とか見てるとこうありたいって思うんだ。もう少し仲良しこよししたい」
「仲良しこよし……」
 朋律がこんなに家族を好きだったなんて知らなかった。私だって両親も朋律も大事だ。そのつもりでいる。
「サバサバしてるよ。お母さんもお父さんもお前も。俺は記念日くらい何かしたいんだ。仕事が忙しいからって全く時間作れないわけじゃない。現に今日も早く仕事切り上げてくるって約束してくれた。プレゼントとかは俺の理想に近づけたい一心でやってるだけ」
「そっか」
「俺の自己満足でもあるから付き合ってもらって感謝してるよ」
「……」
 私は今まで朋律に何かしてあげたことがない。お返ししないといけないと思った。朋律は何が嬉しいんだろう。
「比呂子も季節の行事とか大切にしなよ。俺は今でもお前の入学式に行けなかったのが残念でたまらないよ」
「仕方ないよ。二人とも仕事だし朋律は熱出ちゃったんだもん」
「そうやってすぐ仕方ないって言うんだもんなぁ」
 だって本当にどうしようもないことだ。仕事休んでまで来てほしくない。熱でフラフラの人が来たら周りに迷惑になる。
「写真の一枚でも撮っておいてくれればなぁ……」
「写真? あるよ! 写真」
「あるの⁉」
 そうだ。朋律に見せようとしてたのにすっかり忘れていた。部屋に戻って長山さんの叔父さんが撮ってくれた写真を見せた。
「この子、同じ中学の子。その親戚の人が撮ってくれた。私単体のもあるよ」
「すご……」
 朋律は十五枚の写真をトランプを配るように並べた。
「いい写真だ……」
 長山さんと同じことを言った。おかしくなって私は朋律の顔を見た。意外と長い下まつ毛が涙をせき止めている。
「朋律、どうしたの⁉」
「お礼を、お礼、言っといて。この写真のお嬢さんと撮ってくれた方に」
「伝えてあるよ……」
 朋律は涙を袖で拭いた。せっかくかっこいい服を着てるのに濡らしたら駄目だ。
 私は長山さんが泣いてしまった時のように朋律の背中をさすってみた。
「もう一回、丁寧に伝えておく」
「うん」
 朋律の涙が止まってから私たちは寿司屋に向かった。

 兄妹そろってうっかりした。寿司屋で渡そうとしたワインと花束を置いてきてしまった。だから家でもう一度、両親の結婚記念日を祝った。
 私はワインを飲ませてもらえなかったけど三人とも嬉しそうだったし私も楽しかった。朋律の理想がわかった気がする。もっと近づけたい。私も協力しようと思った。