果報は走って来るから

 只今の気温は三十六・一度。連日の猛暑日はさらに続いた。
 部屋の障子も、くれ縁のガラス戸も開けて熱を逃がす。扇風機を強で回し部屋に風を送る。それでも涼しさは特段感じられない。
 祝は残り少ない宿題に手を付けず、自室の畳の上に転がって蝉の声を聞いていた。蝉はこんなにも精一杯鳴いているのに、祝の頭も体もハキハキ動かない。暑さのせいだけではなかった。
 夏になって祝は遠慮がちになっている。正しく言えば、比呂子と一緒に美術館へ行った日から、比呂子に対してだけだ。
 二人は夏休み中しょっちゅう会っている。比呂子から声をかけることがほとんどだった。きっと今までの祝ならどこへ行こう、何を食べようと深く考えず提案していただろう。それがやりづらくなってしまった。
 会っても言動や態度が控え目になった祝を比呂子も不思議がった。一度、元気がないように見えると指摘したこともある。祝が咄嗟に夏バテかもしれないと言えば、比呂子はすぐに祝を家に帰した。次の日にはゼリーを持ってきてくれて、比呂子の気遣いに祝はひどく罪悪感を抱いた。もうこんな思いは二度とごめんだった。
 だから今度は自分から比呂子を遊びに誘おうと決めていた。ちょうど、毎年八月の最後の土日に行われる地元の夏祭り目前だ。二人で行こう。そう祝は意気込んだ。
 しかし言い出せず木曜日を迎えていた。今からでも比呂子に連絡を入れるか、やめるか。昼食を取ってからそればかり考えている。
 比呂子は明日、金曜の朝にクラスメイトに招かれた別荘へ行く。二泊して夏祭り最終日の日曜の夕方に帰ってくる予定らしい。祝が勇気を出す前にこの話を聞かされ、祭りの話題が出せなかったのだった。

 遅疑逡巡し続けても答えは出ない。祝は畳から立ち上がりビーズクッションに体を預けた。目を閉じて頭の中も静かにする。
 うとうとし始めると家のインターホンが鳴った。母が来客に対応する声が聞こえたので祝は気にせずに再び目をつぶる。
 ところが母の足音が祝の部屋へ近づいてきた。
「祝! お友達来てる! 磐井さん!」
 母は娘の話によく出てくる友人の顔を夏休みになってから把握していた。
「いわちゃん⁉ なんで⁉」
「知らないよ。走ってきたみたい。お茶出すから上がってもらって」
 祝は急いで玄関へ向かう。
 部活帰りなのだろうか。制服を着た比呂子がそこにいた。頬を赤くしてタオルで首を拭っている。母の言った通り、長山家まで走ってやってきたようだ。
「いわちゃん! いらっしゃい! 走ってきたの⁉」
「うん」
「上がって!」
「すぐ帰るから」
「じゃあ! ちょっと待ってて!」
 祝は台所へ小走りし、母が用意してくれた麦茶を持って玄関に立つ比呂子へ渡した。
「ありがとう。いただきます」
 比呂子は冷えた麦茶を流し込む。カランと氷が鳴る。その音がやけに祝の耳に付いた。
 上がり框の高さの分、祝はいつもと違って高い位置から比呂子を見た。彼女の頭の頂点を眺めたのは初めてだ。髪に環状の光が輝いている。祝はそれを掴まえたかった。
「ふぅ。美味しい」
「おかわり持ってこよっか?」
「もう十分。ごちそうさまでした」
 飲み終えたコップを祝は両手で受け取った。
「長山さん、明後日から二日間、サルビア公園で夏祭りあるって知ってる?」
「あっ、うん」
「知ってたか。私はさっき駅でポスター見て知ったんだ。急なんだけど、二日目、一緒に行かない?」
 予想外であまりにも都合のいい比呂子の言葉に祝は口をあんぐり開けたまま一言も発せられなかった。
「誰かと行く約束してる……?」
「ううん! してない! でも、いわちゃん、お友達の別荘から帰ってくるんだよね? 日曜日の夕方に」
「うん。ちょうどいいでしょ」
「……」
「でも夏祭りが始まる六時ぴったりには間に合わないと思う。こっちに着くの六時半くらいになるかも。それじゃ嫌?」
「あ~……! 時間は大丈夫。いつでも平気だけど、大変じゃないかな? 旅行から帰ってすぐお祭り行くの。疲れて──」
「大変じゃないよ」
 祝が心底気にしていたことはさらりとかわされた。比呂子にとって取るに足らないことだった。
「だから一緒に行こう」
 コップの中の氷が祝の手の熱で溶けて再び音を立て、結露の水滴が祝の足の上に落ちてくる。一瞬、冷たさを感じて足元を見た祝が顔を上げると比呂子と真っ直ぐ視線がぶつかった。迷いはすでになくなっており、しっかり返事をした。
「はい……! 行きましょう!」
「うん。とりあえず六時半に中央口で待ち合わせでいい? 新幹線、遅れたりしたらすぐ連絡するね」
「はい! 楽しみ! 浴衣着ちゃおうかな〜」
「ふふっ」
 でたらめな喜びのステップを踏む祝に比呂子は微笑んだ。
「いつもの長山さんだ」
「え⁉」
「私、夏休み入ってから何回も長山さんを誘ったでしょ?」
「うん……」
「今日もね、夏祭りやるって知ってすぐ長山さんと行こうと思ったんだけど、走ってる間に迷惑かなって思い始めて」
「迷惑⁉ なんじゃそりゃ! ありえないよ! いっぱい会えて嬉しい!」
「良かった。夏休み前は長山さんが銭湯とか美術館に連れてってくれたからね。私も誘いたくなったんだ」
「そっかぁ……」
「うん。今日はそれだけ言いに来た。帰るね」
「あ! はい! 来てくれてありがとう!」
 引戸を開ける比呂子の後を祝が追う。玄関の棚にびしょびしょになったコップを置き、つっかけを引っかける。
 二人が家から出ると五時のチャイムが響いた。素色の雲が大きく広がって空気は湿っぽい。真昼とは違った明るさになっていた。気温は変わらず暑い。まだまだ夏だ。

 祝はカラカラとサンダルを鳴らしながら比呂子を近くの三叉路まで見送った。
「別荘、気をつけて行ってらっしゃい! 楽しんでね!」
「ありがとう。行ってきます」
 比呂子が祝から離れた。走るのが速い比呂子は普段の歩幅も広く、どんどん小さくなっていく。夏祭りへのわくわくで胸を膨らませているけれど祝はほんの少しさびしさを感じた。
 その瞬間、Y字の三叉路を進む比呂子が振り向いた。
「浴衣楽しみにしてる!」
 祝に向かって大きく手を四、五回振ると比呂子は走って去って行く。すぐに姿は見えなくなった。
 カランカランカラン。祝も走って家へ戻る。つっかけの走りにくいこと。
「お母さん! 浴衣ってどこにしまってあるんだっけ⁉」
 それから課題もきっちり終わらせなければいけない。八月を最後までめいっぱい楽しむ準備が始まった。