鞘にもならましものを
「私たち、やってやったわ!」
サキコが叫んだ。
学校行事で一番大切にされている三年に一度の大文学祭を乗り越えたばかりだった。第二学年であるサキコは一年生の頃からこの日を夢見ていた。
級友たちの興奮冷めやらぬ中、サキコは教室からこっそり親友のミネを誰もいない中庭へ連れ出した。ベンチに座った二人の目の前にはコスモスが花壇いっぱいに咲いている。
「ええ、大成功! すべてサキコさんのおかげね」
「私たちって言ったでしょう?」
サキコはいつも自信に満ちあふれていた。学力優秀で、常にハキハキした態度で優等生。運動はあまり得意ではないけれどすらりと伸びた背も周囲の目を引いた。
「でも、サキコさんがいたからなのは本当よ。私、最初は主役なんてとっても不安だったから。今も心臓が壊れそう」
一方、ミネはあまり自分をいいように見せることのない子であった。サキコに及ばずともいい成績を残すのに謙虚な態度を取り続けた。級友とも積極的に関わらず一人を好んでいる。どこか悄然としている少女だった。
そんな子がサキコの一大事を救ったのだ。ある日、強い風が吹いてサキコの制服の帽子を木に引っかけた。そこら辺に落ちていた細い枝を掲げて長身のサキコがジャンプしてもかすりもしない。そこに出くわしたのがミネである。
「木に登ったこと、誰にも言わないで」
慣れた様子で幹の凹凸に足をかけ帽子まで腕を伸ばしサキコに帽子を返した。制服の乱れを直しながら気まずそうにミネが言った。
「絶対に誰にも言わない! 私とあなただけが知る事実よ。取ってくれてありがとう! とっても困っていたの。それにしても見事な木登りだった。運動神経がいいのね。去年の運動会、選手代表に選ばれたのではなくて? 私はてんで駄目なの。すぐ疲れちゃう。あなたはきっと大活躍よ。そうでしょう?」
「おしゃべりな人ね」
こうして文学好きの二人の距離は急激に縮まった。そうして今日、共に大文学祭を成功させるに至る。
「恥ずかしがりのミネさんが本当によく頑張ってくれたわ」
「だって……」ミネは普段のように頬を赤らめた。「脚本のあなたがジュリエットはどうしても私にやってほしいと言ったのよ。他の子にやらせたくないじゃない」
「あなたの才能をみんなに見せたかったの! 駄々をこねて正解だった!」
サキコはケラケラ笑った。
「あのね、私、あなたのために、もう死んでしまっていいって気持ちで舞台に立ったのよ」
ミネは真剣な顔で言う。彼女の覚悟を初めて耳にしてサキコは黙った。
「ジュリエットとして本当に死んでも良かったと思う。どうして今、私は生きているの?」
「そ、そんなこと言わないで!」
「悪い意味じゃないわ。やりきったって清々しい気持ちなの」
「そう……?」
「きっと私があんなに大勢の人の前で声を上げることなんてこの先ないもの。思いっきりやったわ。楽しかった。ありがとう、サキコさん。私をジュリエットに選んでくれて」
微笑むミネをサキコは抱きしめた。そっと彼女の襟首に触れる。
「こちらこそ。勇気を出してくれてありがとう」
「ええ」
「……ミネさん、冷えてる。校舎に戻りましょうか」
「いいえ」
しばらく二人は秋の風に吹かれて互いの温度を感じ合った。ずっとこのままでいたかった。
「ミネさんは卒業式したらどうするの?」
「わからない。サキコさんは進学?」
「うん。小説家になるの」
「サキコさんの考えるお話、おもしろいもの。きっと有名になるわ」
「そうでしょう? 私、ミネさんには役者を目指してほしいわ」
「役者?」
ミネの身体に力が入ったのをサキコは見逃さなかった。
「そう! 私の本が売れるわね。そしたら映画になるの。ミネさんは演技が上手で美人ね。期待の新人女優として注目される。同時期に話題になっている私の小説の映画化の話が来る。主人公はあなた。オーディションはやらない。原作者権限としてミネさん以外にはやらせないの」
「……それは、素敵!」
「そうでしょう! そうでしょう! ね! 名女優になってちょうだいね!」
「簡単に言ってくれるわねぇ」
「演技が学べる学校があるの知っていて? お父様が許さないかしら? あなたのお父様、優しいようで厳しいところあるわよね。いくらかわいい娘のお願いでも許してくれないかな?」
「どうかしらね。でも、私も駄々をこねてみるわ。あなたみたいに」
悪巧みの提案に乗るいたずらっ子のようにミネは笑った。彼女の身体はあたたかくなっていた。
それから二人は第三学年に進学した。クラスは別れてしまったが、同じ時間を過ごしていた。春までは。
少しずつ、元から多くもなかったけれどミネから声をかけられることが減った。サキコは互いに勉強に集中するために気を遣ってくれているのだと気に留めないようにした。
さびしさに耐え忍んだ甲斐はあった。
「ミネさん!」
卒業を控えた寒い日の放課後、サキコは誰もいない教室で帰り支度するミネを大きな声で呼び止めた。
「受かったわ! 学校!」
「おめでとう。サキコさんなら合格だって信じてた」
久しぶりに見るミネは意気阻喪としていた。出会ったばかりの頃のような雰囲気をまとっている。
「ありがとう。……こうやって二人で話すの久々ね。なんだか、瘦せたように見えるわ。疲れてる?」
「寝不足で。恥ずかしいな」
「お勉強、頑張ってるんだもの。多少の無理も必要よ。それで、その、ミネさんは……」
「合格発表?」
「う、うん! どこに──」
「結婚するの」
サキコが知っている演劇学校の名前はどれも挙がらなかった。
「ええ……? 誰が?」
「私」
顔色ひとつ変えずミネは言う。サキコは何か言おうと聡明であるはずの頭を働かせた。
「……びっくり。でも、そう。結婚するのね。おめでとう。相手はどんな──」
「おめでたくなんかないよ!」
ミネから出たとは思えない怒号にサキコは怯んだ。怒りは徐々に悲しみに変わっていく。ミネの目からは涙があふれ、頬を伝う。
「どうして! 私、ずっと怖かったのに。不安で不安で眠れない日が続いたのに。どうして、おめでとうなんて嬉しそうにひどいこと言うの」
「ミネさ──」
「父の決めた知らない人なの。これ以上、私は勉強する必要ないんですって。知らない家の人間になるの」
ミネが袖でごしごしと顔を拭く。度々、彼女は豪快なところを見せてはサキコを驚かせる少女だった。きっといつものサキコなら制服のポケットから刺繡入りのハンカチを出すのである。今日はできなかった。
「車を待たせているから。さようなら」
これが二人の最後の会話となった。
ミネは嫁ぎ先で女の子を産んでからしばらく体調を崩し、二人目の男の子を出産し亡くなった。その知らせが届いたのはサキコの実家であった。彼女もその頃には兄の学友であった男性と結婚して家を出ていた。
サキコはミネを恨んでいた。あの時、大人ぶって結婚を祝う言葉を発したけれど本心では裏切られたと感じていた。どうして何も言ってくれなかったのか。役者になりたいと親に一言も言い出せなかったことも、縁談があったことも。相談されたところで解決はできない。しかし、報告してほしかった。ままならないことも共有したかった。
それと同時に思う。夢を押し付けて申し訳なかった。ミネの激情を受け止めたかった。泣かないでほしかった。心からミネの幸せを願いたかった。
ミネの夫はいい人のようだった。休日には一緒に観劇へ行ったり、俳句を読んだり仲睦まじい夫婦だった。しかし、か細い蝋燭の火のような見た目とは裏腹に非常に壮健なミネを弱らせた張本人に間違いない。
物書きになったサキコにもミネの人生を書き直せない。悲憤の涙を流すほかなかった。
*****
「佐己小さーーーん!」
夫を送って一人暮らししている佐己小の家ににぎやかな客人が訪れた。
「佐己小さん! 行きましょー!」
近所付き合いというとあっさりしている。今どき珍しく家族ぐるみで親しくしている家の娘だ。中学三年生の受験生である。
今日はこの娘の第一志望校の高校の文化祭に行く約束をしていた。
「あぁ! 楽しみ! 佐己小さんのおかげ。佐己小さんが挑戦するだけしてみろって言ってくれなかったら、あたし、お母さんたちに美術科の学校を受験したいですって言う勇気さえ出なかった。こうして文化祭に行くこともなかったよ」
佐己小はおしゃべりな娘を見ると学生時代の自分を思い出して仕方ない。
「三つ編み、かわいいわね」
普段の娘は耳の下で二つに結った髪を垂らしている。今日は珍しく編んであった。
「ありがとう~! 気合入れというか願掛けというか。朝、きっちり三つ編みにしたの。すでにちょっとゆるゆる。気持ちと連動してるの」
家から駅に向かう間、娘は下手なスキップで跳んだ。
受験生向けの相談会に参加したり、様々な部活動の出し物を一通り楽しんだ。文化祭も終盤である。
「佐己小さん、疲れてない?」
「大丈夫」
「どっか座れる場所あるかな? さっき地図で休憩スペース見た気が……」
娘が文化祭のパンフレットを開くと挟んであったチラシが数枚滑り落ちた。
「ありゃりゃりゃ」
「まったくもう」
佐己小が拾い上げた一枚は演劇部のものだった。
「『ロミオとジュリエット』だって! あと……十分で始まるみたい! 佐己小さん、こういうの好き? 観ていく?」
「そうねぇ」
胸がざわめいた。長いこと避けてきた演目だった。娘の提案に乗ったのは足を休ませたかったからだろうか。
『この胸がお前の鞘よ! そのまま、わたくしを死なせて!』
ヴェローナは悲しみにあふれた。
会場の講堂は満員御礼で用意された教室で中継も行われていた。佐己小と娘は運よく講堂の二階の席に案内されていた。
学生劇だからと甘く見ていたが演技力も衣装も道具も上等である。客が入るのもよくわかる。
しかし、佐己小はどうしたって自分の学生時代を思い出していた。楽しみにしていた大文学祭。舞台袖で見ていた。佐己小の願いを叶えてくれた佐己小だけのジュリエット。皆に見せびらかしながらも誰より近くで見つめていた。
「すごかった‼ あたし、劇をちゃんと観たの初めてかも! ぐっと引き込まれちゃった。かっこよかったなぁ。ねぇ、佐己小さ、ん……」
終演後、開場に明かりがついて観客がぞろぞろ退場している中、二人はまだ席に座ったままであった。
「はい」
娘はハンカチを佐己小へ差し出した。
「あっ、ティッシュの方がいいかなぁ?」
「大丈夫。ありがとうね。自分のがあるから」
佐己小は自身のハンカチの隅で溜まった涙を拭き取った。
「ちょっと感動しちゃって」
「わかるよ! あたしの感動はジーンというかバーンだけど、素敵だったもん。情熱的なお話だったねぇ。なんか花火みたいで」
娘は夏の終わりを惜しむように言った。消えた火は二度とつかない。吹いた風も戻ってこない。佐己小は遠くを見つめ、娘と共に会場を去った。