スプリング・スプリング・スプリング #16

 旦那さんと九州へ戻った叔母から引っ越しを知らせるハガキが届いた。夫婦の名前と聞いたことない土地名の他に「狭いアパートだけど祝ちゃんならいつでも歓迎です。遊びに来てね」と書かれている。
「これに返事書くのっておかしいかな?」
「引っ越しのハガキに? あまり聞かないね」
 佐己小さんは冷たくて甘いコーヒーを淹れてくれた。カフェオレかカフェラテだと思う。佐己小さんがこうして飲ませてくれなかったら苦い飲み物だと決めつけたまま好きになってなかったかもしれない。
「梅雨が明けたら暑中見舞いでも送ってあげなさい。それにお知らせありがとうって書けばいいんじゃない」
「おお! そうしよ!」
「実和ちゃん喜ぶよ」
「佐己小さんは九州行ったことある?」
「福岡と熊本、鹿児島くらいかしらね」
「いいなぁ。遠いなぁ」
「夏休みになったら会いに行けば?」
 叔母には会いたいし知らない場所に行ってみたいけどあまりその案には乗れなかった。
「あたしね、実和ちゃんは家族だけど実和ちゃんの旦那さんのことはそう思えない」
「あなたとは血の繋がりもないし離れて暮らしてるものね」
「他人でも近くに暮らして交流すれば家族って思えるのかな? 佐己小さんみたいに」
 そう言うと佐己小さんは笑い始めた。
「私は祝の家族なのね」
「え⁉ そうでしょ⁉」
「そうね、そうだそうだ」
 ひとしきり笑うとコーヒーをストローでかき混ぜた。佐己小さんはよくブラックコーヒーを飲む。カランカランと大好きな音が鳴る。
「私も祝の結婚相手を家族に思えるかしら」
「あたしの結婚相手ぇ⁉」
「今は好きな子いないの?」
 小学生の頃は頻繁に誰が素敵やら誰と仲良くなりたいやら佐己小さんに話してた。今はすごいと思った人の真似をすることも減った。もう昔の話だ。
「前よく言ってた俳優の子は? もう飽きたの?」
「高琴君⁉ 大好きだよ! 芸能人じゃん!」
「どこかで運命的な出会いをするかもわからないじゃない」
「ファンに手を出すなんて最低だよ!」
 高琴君がどんな恋愛をする人なのかわからない。だけど絶対にファン相手に付け入るようなことはしないでほしい。
「じゃあ同じ班の子は? いい子たちなんでしょ?」
「えー⁉ ひので君と真生君⁉」
 そういう意味で彼らのことを話したつもりはなかったけどいい人たちなのは間違いない。ひので君は態度や言葉遣いが粗野な感じで、真生君は口数が少なくて素っ気ない印象を受ける。
 親しみを持ってしまえば気にならない。それに自分の考えを押しつけたりせずにしっかり物を言う二人を好ましく思っている。もちろん彼らは私の意見も聞いてくれる。一緒に制作するにあたって話し合いがスムーズにできるのはありがたい。気遣う加減が私にとって絶妙なんだ。二人も私をそう思ってくれたら嬉しい。やはり彼らの親友になりたい。
「いいね。恋人より旦那になってもらいたいタイプだ」
「恋人になって旦那になるんじゃないの?」
「そうだけど、理想の恋人と理想の伴侶は違うってよく聞かない?」
「えー? 佐己小さんの旦那さんはどうだったの?」
 旦那さんのことはまだまだ若い頃に亡くなったってくらいしか知らない。写真を見せてもらったことがある。ちょっと吉田茂に似てる。
「全然理想の人なんかじゃなかったよ」
「そうなの? 全く? どうやって好きになったの?」
「兄の友達だったの。家へ遊びに来るうちに私を気に入ってくれたんだけど、私は別の好きな人がいたから袖にしたつもりなのに諦めないの。兄も妹はよしとけって言っていたのに聞きやしない」
 別の好きな人。その人とはどうなったんだろう。結ばれなかったことになるんだよね。ちょっと気になる。
「……熱烈だったんだねぇ」
「そりゃもう。顔を合わせればいつもかわいいねって言ってくるような人だった」
「素敵!」
「そう?」
「あたしも好きな人には毎日かわいいって言われたい!」
「ふふ。あの頃はまだ気のいいお兄ちゃまだとしか思ってなかった」
 そっか。旦那さんになるなんて思ってもない頃か。好きでもない人に言われるのはどうなんだろう。嫌かな? 嬉しいようにも思うけど迷惑かも。
「ある日、うちへ来ないかと言われてね。最初、遊びにかと思っちゃった。いいですよって返事したけど後から意味がわかって大変だったんだから」
「え⁉ ええ⁉ お嫁にってこと⁉」
「そうそう。親に話が行ってしまう前に兄が奮闘してたわ」
「ひゃ~~~」
 ドタバタラブコメだ。若い頃の佐己小さんと話したいな。旦那さんにも会ってみたかった。
「その頃の私は捨て鉢になってたから、少し考えてお嫁にでもどこにでも行ってあげてもいいですよって返事したんだけどね」
「捨て鉢って何?」
「ヤケになってたの。幸せになっても不幸せになってもいいやって」
「どうっ……」
 どうして。そう口から出かけたけどぐっと堪えた。きっと別の好きな人が関わってる。尋ねたら答えてくれるかもしれない。でも聞き出してはいけない気もした。佐己小さんが傷つくかもしれないことはしたくなかった。
「佐己小さんは旦那さんを選んで幸せになった?」
「幸せになっちゃった。もっと長生きしてくれたら良かったけどね」
 佐己小さんは優しく微笑んだ。
 コーヒーのお代わりをもらう。甘いのじゃなくて佐己小さんが飲んでいたのと同じブラックコーヒー。やっぱり苦いけどそのうち慣れそうな予感がする。今はまだ味わうことせず喉へ通すだけ。
 顔に出ていたのか佐己小さんは蜂蜜を混ぜると美味しいんだと言って、瓶に入った蜂蜜をハニーディッパーですくって入れてくれた。かき混ぜると甘くまろやかになってぐんと飲みやすくなった。もう一杯コーヒーをねだると一度に飲みすぎだと断られた。

 その夜、ベッドに入って考えてしまった。
 夜ってのは物思いにふけるに最適な時間だと思いがちだけど飲み込まれておかしなことを考えてしまう。たまにいいひらめきを得ることもある。そういうのは朝になったらつまらなくなってる。夜は寝るのが一番なのだ。寝る前は寝ることに集中するべきである。
 だけど考えた。もし、万が一、誰もが絶対に結婚しなくてはならない未来になったとしたら。そうなったなら相手はひので君と真生君がいいと思った。高琴君じゃない。単純に一番仲のいい同年代の男性だからなのかわからない。結婚なんて怖いことをしなくてはいけないなら二人がいい。
「……三人で結婚できたらいいのに」
 そんな日は来ない。法律も私も変わらない。私は一番を選べないじゃないか。二人を選ぶことはごま油とオリーブオイルくらい選べない。選べなくていい。
 いつか二人は絶対にあなたじゃなくちゃ駄目だって人に選んでもらえる。もういるのかも。三人で恋愛の話をしたことはない。私が知らないだけで恋人がいるかもしれない。だって二人とも素敵だから。不埒なことを一瞬でも考えた不誠実な女とは付き合わないでほしい。私は二人を大事にすることを心がけるだけ。
「二人は大切な友達だよ」
 佐己小さんにさえこの思考は話せない。罪悪感を打ち消すように呟いて眠りに就いた。