スプリング・スプリング・スプリング #22

 いつも元気な素描の先生が体調不良で休んでしまった。よりによって講評の日に。
 代わりに、主に三年生を担当している先生方が講評会に参加することになった。二人も来た。迫力がある。
 私たちの並べた作品を端から見た。絵が並んでるだけで私はいたたまれない気持ちになる。先生たちが並び替え始めると心臓がバクバクして汗が出て体が冷える。教室内が暑いのか寒いのかわからない。
 こんな時は高琴君を思い出す。彼もオーディションは毎回緊張するとインタビューで言っていた。彼でさえそうなんだからクラスメイトたちだって比べられて落ち着いていられないだろう。自信満々の人もいるのかもしれないけど全員じゃないはずだ。
 並び替えられた位置でいい作品かそれ以外かがわかる。今回の私の作品もまぁまぁの位置に移された。もっと真ん中の上に近づきたい。だからクラスメイトの講評もしっかり聞かなくてはいけない。

「見て描いた?」
「そもそも構図がおかしいんだよなぁ」
「全部同じ素材でできてるようにしか見えない」
「授業休んだ? 時間なかった? やる気出した?」
「ここは影のつもり? 真っ黒に塗りつぶすだけなら未就学児でもできるよ」
「地味だな」

 何も言われず素通りされた人もいる。先生の質問に答えられずに泣いてしまった子もいた。次から次へとクラスメイトは撃沈していく。私も同じだ。ひので君も真生君も。真生君なんて真ん中の位置に置かれたのにあまり褒められなかった。
 三年生の先生は容赦ない。担当の先生は私たちが一年生だってことを考えて評価してくれていたんだ。ひらがなが書けて偉いね。そんな感じだろうか。
 途中でメモする手が止まった。早く夏休みにならないかな。隣に座っていたひので君はガリガリ書いていてすごいなぁと思って覗いてみたら、あいうえおかきくけこさしすせそ……と書き殴っていた。

「現実だ」
 ひので君は怒りも悲しみもひらがなにぶつけて冷静になっていた。
 共同制作の時間だったけど他の班も先程の講評会を引きずって作業が進んでいないようだ。落書きをしながら私と真生君はひので君の講評会の講評を聞いていた。
「言ってることは正しい。俺にだってわかる。できていないことをできていないと言うのは教師なんだから当然だな。でも物には言い方ってもんがあるだろ。小中高とテストの問題文が『答えを求めましょう』『求めなさい』『求めよ』に変化するのとはわけが違う。三年になるとあれが待っていると思うとおかしくなりそうだ。ぬるま湯に浸かっていていいのかとも思うけどやっぱ褒められて伸びたい」
「それは、あたしも……」
「厳しい世界だってわかってたけど、俺らまだなぁんもできてないんだろうな」
「……ね」
「はぁ。むかつくよなぁ。並べた時さ、まおちゃんが一番上手いなって思ったよ。なのにボロクソにこそ言われなかったけどいいところも言ってもらえなかったじゃん。それも嫌だ」
「俺には注目を浴びるような上手さはないんだよ」
 真生君はひので君をなだめるように言った。そして私にも。
「ながははっきりしてるって言われてたな」
 はっきりしてる。私がもらったたった一言。ただの感想みたいで褒め言葉だとは思えない。なんだか木がしっかり植わっていると言われてるようで。そりゃ今にも根元から折れそうな木よりいいんだろうけど手放しに喜べない。
「ふかみたいに光の表現上手くなりたいな」
「上手いってか、変にこだわりすぎって言われたけど……」
「俺はそのこだわりがいいと思った。影をつけるのも勇気がいる」
「あたしも! ひので君の絵は木炭でもキラッとして見える!」
「……そーお? まぁ今日は素直に受け取っておこうかな。どーもね」
 誰も思うところはある。今日の講評会は誰も満足しなかった。なんの成果もなく共同作業の時間も終わった。
「いい機嫌になれるようなことが早く訪れることを願ってるぜ〜」
 ひので君は手をひらひら振りながら帰っていった。

 家に着くと玄関にかわいらしいちいちゃな靴があった。従弟が来ているようだ。たまに預かることがある。
「ただいま。ナギ来てるの?」
 台所にいた母に声をかけると小声で返ってきた。
「おかえり。今ちょうど寝たの。そーっとね」
「はーい」
 手を洗って自分の部屋へ続く廊下をゆっくり歩いた。ギギギと軋む。古い木造の平屋建ての我が家。趣があって好きだ。
 部屋に着くとすぐに異変に気づいた。 
「ちょっと‼ お昼寝してたんじゃないの⁉」
 障子が開いている。母が勝手に換気することもあるけど様子が違った。部屋の真ん中に置いてあるローテーブルに従弟が腰掛けていた。家用の筆箱を勝手に開けたようだ。鉛筆を握っている。
「はじめちゃん」
「勝手に入っちゃ駄目って前に言ったよね? 物にも触らないでってお願いしたよ!」
 従弟をテーブルから下ろす。低くても頭から落ちたら大変だ。
「だって、いっしょにおえかきしたのに」
「あの時はあたしが入っていいよって言ったからいいの。あたしがいない時に入らないで。危ないんだよ」
 この前、私の部屋に入りたがってたから一度だけ招いた。部屋には画材など大きい物が積み重ねたり立てかけたりしてある。もし下敷きにでもなったらどうするんだ。何より知らない間に部屋を荒らされるなんて耐えられない。
 従弟を部屋の外へ出す。ただでさえ気落ちしてたのにすっかり疲れた。今すぐにでも横になりたい。従弟は不思議そうな顔をして私を見上げる。
「おえかきは?」
「おえかきしないよ」
「なんで?」
「約束守らなかったでしょ。もう入れてあげない」
「やだ」
「ごめんね。やることがあるの」
「やだぁ! やだやだ!」
「もう! わがまま言わないで!」
「なぁに? どうしたの?」
「お母さぁん!」
 母がとことこやって来た。母に話を聞いてほしかったけどのん気な顔を見てむかむかが増した。
「お母さん! ナギ、あたしの部屋にいたよ! ちゃんと見ててよ! 何かあったらどうするの!」
「ごめんごめん。何かしたの?」
「勝手に画材触った!」
「そっか。お姉ちゃんにごめんなさいしようね」
 母は優しく従弟に謝罪を促した。私はもうどうでもいいから寝たかった。
「はじめちゃん、おこるから、きらい」
「はあ⁉」
 眠気は去った。ひので君の言ったいい機嫌どころじゃない。
「あたしだって──……!」
「祝」
 母が私の肩にそっと手を乗せた。許してあげてって顔してる。悪いのは私らしい。
「お風呂入ってくる。今日ご飯いらない」
 とにかく今は一人にならないといけなかった。母にもきつく当たってしまいそうだ。食事の拒否は最小限の反抗だ。

 お風呂から上がってすぐ布団を敷いてごろごろした。でんぐり返しを一回すると体の力が抜けて眠くなった。明日提出するものはないしこのまま朝まで寝よう。
 しかし、か細い幼い声に起こされて浅い眠りから覚めた。
「はじめちゃん」
「…………なぁに」
「おへやいれてください」
 重い体を起こして障子を開けた。しょぼくれた従弟が立っている。
「はじめちゃん、ごめんね」
「……いいよ。あたしもごめんね。許してくれる?」
「うん。つぎ、おえかきする?」
「しようね。クレヨン持ってきてね」
「うん」
 夕方だ。居間から聞こえる声でお迎えが来ているのがわかった。帰る前に私に謝るように言われたのだろう。いい子だ。
 でも小さい子はずるい。私の方が大きいんだし許すしかない。あんなに嫌な気持ちになったのに。ずるい。ひどい。
 あの時、この子にとって私は世界で一番恐ろしい存在になっただろう。こんな小さい子に怖い思いをさせてしまった。悪いことをした。だけど私は悪くない。そう誰かに言ってほしくて、でも誰にも話せなくてちょっとだけ涙が出た。
 それからはぐっすり眠るだけ。