スプリング・スプリング・スプリング #23
朝から気が急く。いつもより早く学校に着いた。
教室の廊下にひので君が立っていた。窓を開けて遠く外を眺めている。教室を覗いたらまだ人が少ない。私は教室に入らず彼に近寄った。
ひので君は物思いにふけっているようで声をかけようか迷っていると私に気づいて挨拶した。
「おう、おはようさん」
「おはよー……何か考えてた? 悩み事?」
「いや。眠かっただけ」
「そっか。じゃあ、ってのもおかしいけどあたしの話聞いて!」
「はいはい」
「どうしよう! ついに美術館行くことになった!」
「例のデート?」
「そう! 日曜日!」
「場所は決まったんか?」
昨日の帰り、突然、いわちゃんが遊びに誘ってくれた。陸上部の週末の練習が休みになったからって。用事も断る理由もなかった。
それにいわちゃんから美術館に行きたいと言われた。いつか一緒に行く美術館を決めかねていた私は咄嗟に候補から外していたはずのテレビ局と新聞社が主催になっている展覧会を提案した。デメリットを一つも知らないいわちゃんはここに行こうと言ってくれた。
「混むとこ選んだなぁ」
真生君にも混雑を指摘された展覧会だ。いわちゃんを連れて行くのはよそうと考えていたにもかかわらず。
「つい、話の流れで、勢いで……」
「よく初デートは並ばないところがいいみたいな話聞くけど……無言が続いて空気が悪くなるってことならそれは心配ないか。はじめくん、おしゃべりだもんな」
「ひどい!」
「褒めてる褒めてる。よっ! 沈黙知らずの盛り上げ上手! 待ってる間に絵の話でもすりゃいいじゃん。自分の得意分野アピールしどころでしょ」
「でも、それって知識をひれ……ひけれ……」
「はじめくんが言ってもひけらかすように感じないって」
「そう⁉」
「もし嫌味を言ってもそう捉えてもらえないタイプだよ」
それも褒められているのかわからない。嫌味って受け取る側の問題ではないのだろうか。
「デート終わったら報告してよ」
そう言ってひので君は教室に入ろうとした。私は必死に彼の腕を掴む。
「見捨てないで! アドバイスちょうだいよ!」
「アドバイスぅ?」
ひので君を窓まで戻して助言を求めた。
「気をつけた方がいいことってある⁉」
「えー……そもそも俺だってそんな……わかんないけど…………うーん……置いてけぼりにしないようにするとか?」
「しないよ! むしろ、あたしが迷子になるかも!」
「物理的な置いてけぼりだけじゃなくてさ。相手にとっては初美術館なわけじゃん? 初めて行く場所がよりによって人混みってすごくストレスだと思うんだよ」
「はい……」
「はじめくんがエスコートしてやんないと」
「エスコート……!」
「そんな言い方は仰々しいか」
「華やかで素敵! 具体的にはどうすればいい?」
エスコートと聞いてタキシードの私の腕にドレスを着たいわちゃんがそっと手を添える姿しか思いつかなかった。
「相手の様子も見ながら展示に夢中になりすぎないよう気をつけたり。疲れてないか、退屈してないかちょっと気にかけるくらいでいいんじゃない?」
「はい!」
でも当日になってはしゃいでしまうかも。いわちゃんの美術館に対する興味の火を大きくしたい。美術に触れて少しでも好きになってもらいたい。そう言うとひので君は笑った。
「なんとなくだけど、心配ないんじゃないかな」
「えー? どうしてそう思いますか?」
「俺、相手の情報ほとんどないけど美術に関して今まで興味も知識もない人なんだろ? そんな人がさ、美術館行きたいなんて思うかね」
「別に思ってもいいと思いますけど……」
ほんの少しムッとしてしまった。誰もが思ってもいい。約束事を守れば誰だって楽しんでいい。そういう場所だ。
「きっかけの話よ。本当に美術に興味が芽生えたのかもしれないけど、その人、はじめくんの気を引きたいんじゃない?」
「え?」
「とりあえず相手の趣味に合わせるってよくあるだろ」
「えっ……それじゃあ美術館には興味ないってこと……?」
私に合わせてくれてるだけで、いわちゃんが美術館へ行きたいと言ったのはお世辞みたいなものなのかな。いわちゃんにとって遊びに行くのに目的地はそこまで大事じゃないのかも。私が重要視しすぎてるのかもしれない。
「そう捉える⁉ これはあくまで俺の予想! 予想だけどさ」
「はい……」
「美術館に行ってみたいって気持ちは嘘じゃなくて、ちゃんとあったとしても、それより、はじめくんとどっかにデート行きたい気持ちの方が強いんじゃない? ってこと」
「……」
「相手に合わせるって悪い意味じゃなくて。行き先はどこだっていいからあなたの好きにしてって丸投げしてるわけじゃなくてさ。手っ取り早く相手のこと知れるし、共通の話題で距離も縮まるでしょ。きっと、その人もはじめくんとの仲を深めたいのよ」
「おぉん……」
「俺の言いたいことわかる⁉」
わかる。もちろん、私はいわちゃんと仲良くなりたい。いわちゃんもそう思って歩み寄ってくれてるなら嬉しい。嬉しい。本当にそうだったら。
「顔、真っ赤だ」
「うわ〜〜〜〜〜」
「恋してんなぁ」
指摘されると顔はもっと熱くなった。ひので君が想像してるような情ではない。そのはずなのにおかしい。恥ずかしくて嬉しくて走りたい。でんぐり返しできるようになった身なのでいつもより速く走れる気がする。
「とにかくさ、変に気張らず楽しんでおいでよ。案外いつも通りだったりしてね。報告待ってるから」
「はい。師匠」
教室に戻るひので君の後ろをついていく。席に座ると鐘が鳴った。やけに大きいこの学校のチャイムは全身を打つように響く。入学したばかりの頃は驚いたもんだ。
やがて先生が来て朝礼が始まった。チャイムはとっくに鳴り終わったのに私の体はまだどくどくと打たれているようだった。