スプリング・スプリング・スプリング #24

 待ち合わせ場所に着いたのは約束の時間より二十分も前だった。それなのにいわちゃんは先に駅前の木の下で待っていた。本当は暑かっただろうけど、これくらいなんともないって涼し気に大丈夫と言ってくれた。
 私服のいわちゃんは随分お姉さんに見える。落ち着いた深い紺のワンピース。想像上の寄宿学校のお嬢様の夏服を思わせる。上品でかわいくていわちゃんによく似合っていた。今日一日この子の隣にいられる。身に余る光栄。

 予定の時刻より早くに集合できた私たちはそのまま電車で美術館へ向かった。
 車内は混んでいたけどクーラーの風が適度に当たる席に座れて運が良かった。周りにはおしゃべりを楽しんでる人が多くいて適度ににぎやかだったので私は遠慮なくリュックから小さい荷物を一つ出した。
「何?」
「今日のデートのしおりみたいなやつ!」
 できるだけいわちゃんに美術館を楽しんでほしくて作ってみた。今日行く美術館の特徴や、この展示の見どころなどを簡単にまとめたものだ。
 興味ないところでもどんな場所なのか知っておくと見方が変わると思う。小学生の時からしおりの存在は遠足や修学旅行への私のモチベーションをさらに上げた。
 行く場所について調べてそこにいる自分を想像したり、班で組んだタイムスケジュールを眺めたり。眠れなくなるのは前日の夜どころじゃない。私はわくわくしっぱなしだった。寝不足が数日続いて前日はぐっすり眠れた。
 何より自分の絵が表紙になることが一番だった。それだけで大切な思い出になる。選ばれたらクラスメイト全員が私の絵を持ち歩くのだ。中にはモノクロに印刷されてる表紙に色を塗る子もいた。嬉しいようなやめてほしいような複雑な気持ちになる。それもまた記念だった。
 今回は表紙だけじゃない。全ての制作が私。少しでもいわちゃんの手助けになれたらと思って作ったけど、作っていて私は楽しんでしまった。結局、自己満足なのかもしれない。
 いわちゃんはしおりのページを一通りめくった後、表紙に戻ってじっくり見る。その間、私はハラハラしていた。
「嬉しい……」
 彼女の淑やかな笑みは私を安心させた。これだけで満足してしまいそう。これからだってのに。今日はいっぱい楽しい思いをしてほしい。私がさせるのだ。

 美術館では展示品と同じくらいにいわちゃんを見た。退屈してないか、疲れてないかチラチラ気にかけた。たまに視線がバチっと合って恥ずかしかった。その度、私はへらへら笑った。
 いわちゃんは美術館に難しそうなイメージを抱いていた割に素直に鑑賞しているように見えた。「写真みたい」だとか「私でも描けそうなのに……」と感想を呟くように伝えてくれる。「これとあれ、何が違うの?」って質問もしてくれた。それでいい。こそこそっと二人で感想を言い合う。楽しい。
 ただ、今展示会の目玉作品を前にした時、私は目の前の名画しか見えてなかった。一分もない数秒間、絵のサイズや色彩を直に感じ取った。もっと近づいて横から絵具の盛り上がりなんかも見たいところではある。
 映像や印刷物で見た印象とはかなり違った。芸能人でもよく本物の方がかっこよく見えると言われるって言ってる人がいるけどわかる気がする。これが本物。ついに見られたんだ。今日、私がこの絵を見たという証明書が欲しい。
 今すぐ絵を描きたくなった。今日はいい日だ。

 展示室から出た後、ミュージアムショップでグッズを買う。欲しかったけど図録は我慢してポストカードをたくさん選んだ。自分の好みだけではなく、お土産としてひので君と真生君に渡すのと実和ちゃんへの暑中見舞い用も忘れずに買った。
 いわちゃんのお兄さんへのお土産を一緒に見てたら人に押されて離れ離れになった。合流できないままそれぞれの買い物を済ませた。
 お昼には美術館の近くのラーメン屋に入って熱いラーメンを食べた。甘いものが食べたくなってまた近場のカフェでミルクレープを食べた。別腹も満たされたのでゆっくり歩く。気になるお店を見つけてはウインドウショッピングを楽しんだ。
 チャイムが鳴った。五時だ。まだ明るいからそんなに時間が経っていたことに気づかなかった。
「長山さん、門限ある?」
 いわちゃんが私の帰る時間を気にかけてくれている。親切だけど今日が終わる知らせを受けるようで嫌だった。本当は七時半の門限を八時だと伝えた。こんな嘘ついても帰らないといけないのは変わらないのについ言ってしまった。

 門限ギリギリにならないように早めに帰ることになった。帰りの電車は行きより混んでいた。入口近くの席に座っていた人たちが降りたので私たちはそこにすっと座った。
「満員電車は国を挙げて取り組むべき課題だと思う」
「あぁ、うん。わかる。朝練の日はそうでもないけど普通の時間だと人すごいよね。長山さん、大丈夫? 潰されてない?」
「毎朝潰されかけてるよぅ」
「やっぱり会議してもらわないとね」
「政治家の人って満員電車経験したことあるのかな? 中学の時はさぁ、電車通学ってかっこいいって何も知らず思って──……」
 自分の左肩が重たくなった。見るといわちゃんが斜めになって私に寄りかかっている。寝ちゃった。慣れない場所をいっぱい歩かせたせいだ。体力があるいわちゃんでも疲れてしまう。私も気合を入れていたけどいわちゃんも頑張ってくれたんだ。
 耳元に彼女の短い髪がさらさら当たってくすぐったい。目をつぶるとその感触がよくわかる。電車の揺れも。このまま門限なんて関係なく電車がどっか知らない遠くまで行っちゃえばいいのに。

「長山さん! 起きて!」
 気づけばぐっすり寝ていた。いわちゃんに起こされる。終点まで来ていた。すぐ電車を降りる。
 乗客はすでに改札へ向かっていて、ホームには私たちだけが残った。
「瞬間移動したみたい……」
 ほんのちょっと寝ただけなのに終点の駅までひとっ飛び。不思議だった。知らないどこか遠くにしては近い場所だけど、少し願いが叶ったみたいでおかしかった。
 ふわふわした心地の私とは反対にいわちゃんは焦っていて乗り換えの駅に戻るまで二度と寝過ごすまいと集中力を高めていた。それもまたおかしい。

 私たちの駅に到着したのは六時半で、私のどちらの門限まで時間があった。
「いわちゃん、サルビア公園行かない?」
「サルビア公園? うん。いいよ」
 中央口の広場がサルビア公園。そこのベンチに座った。
 季節に合わせて様々な植物が見られるけど名前の通りにサルビアが多く植えられている。私は伊織ちゃんと放課後ずっとここで遊んでいた。いわちゃんも小さい時は来ていたらしい。
「あたしはね、よくマイムマイムを踊ってたよ! 公園にいた別の学校の子にも参加してもらったことある。楽しかったなぁ」
 あの頃は誰とでも友達になれた。一緒に遊ぼう、仲間に入れてと照れたり恐れたりせず言えた。今は勇気が減っちゃった。
「いわちゃんもさ、ここで遊んでたなら一緒に踊ってたりしてね!」
「……踊ったかも」
「ええ⁉」
 冗談交じりの願望も言ってみるものだ。いわちゃんもふざけて言った様子ではない。
「一緒に遊んでた子が別の学校の子に声かけられて私も踊った。マイムマイム知らなかったから教えてもらったよ。ずーっと踊ってたよね? 五時になるまで」
「本当に⁉ いわちゃんもいたの⁉ 嬉しい嬉しい! え~⁉ あたしたちまた友達になっちゃった!」
 嬉しさで気持ちがいっぱいになったら溢れ出てしまう。こりゃもう踊るしかない!
 ベンチに座ってるいわちゃんを立ち上がらせて私は歌った。今まで何回も踊ったけど二人だけのマイムマイムは初めてかもしれない。ぐるぐるぐるぐる。一周があっという間に巡る。視界がぐらぐらして一旦ストップ。お互い大笑いした。いわちゃんにしては豪快に笑っていた。
「箸が転んでもおかしい年頃とは言うけどねぇ」
 呼吸が落ち着くと私たちをあきれるような、いさめるような声が聞こえた。
「佐己小さん!」
「にぎやかな子がいると思えば祝じゃない。びっくりしたわよ。高校生になって少しは慎み深くなったかと思えばあなたはなんにも変わらない」
 お出かけ用の着物を着ている佐己小さんは飲み物を買うよう私たちにお小遣いをくれた。
「私までいいんですか?」
「どうぞ。この子と仲良くしてあげてね。さみしがり屋なの」
 佐己小さんといわちゃんが話してる。どうしてか嬉しい。だけど余計なことは言わないでほしい。隠そうとしてもいわちゃんにはもうバレてるかもしれないけど。今度、いわちゃんを家にきちんと招待しようかな。
「二人とも、夏だからって暗くなるまで遊んでちゃいけませんからね。熱中症と変な人に気をつけて」
 あれこれ訊かないで佐己小さんは行ってしまった。
 また遊びに行った時に今日のことを話そう。いわちゃんには佐己小さんをご近所の第三のおばあちゃん的存在だと説明した。

 私たちは公園内に知らないうちにアイスの自販機が設置されていたことに気づいた。いつの間に。こんなの飲み物じゃなくてアイスの気分になるに決まってる。
 私は悩むことなくチョコミントを選んだ。いわちゃんは少し迷ってソーダフロートを買った。チョコミントは苦手だって言うから断られたけど私は一口いただいた。
 チョコレートの散らばったミントに螺旋のバニラホワイトとライトブルー。どちらも自販機のイメージ図のように鮮やかな色ではないけど暑い夏にふさわしい涼し気な色合い。あまりにもぴったりで快い。
 こうして色からの情報を感じるとたまに考えることがある。色に対するイメージは自分のものなのか。水色は真に爽やかなのかと疑う。初めてその色を見た時、そう思えただろうか。熱をはらんだ水色はありえないのか。どこかからこの色はこういうものだと印象を植え付けられてそう感じるようにさせられているのではないか。
 小学一年生の頃に英会話の先生の絵を描いた。髪をクレヨンで白に塗って上から細く黄色を重ねると同級生から批判された。先生は金髪だって。金色のクレヨンは持ってないし、きっとその色ではない。黄色や黄土色じゃ濃すぎる。特に私は窓際の席だったら光が当たる先生の髪が白く輝いて見えていた。あのキラキラを再現するのは難しかった。
 多くの日本人は太陽のイラストを描く時に赤を選ぶだろう。でも欧米では一般的に太陽は黄色らしい。白やオレンジってところもある。虹が七色ではない国もあるし、性的な印象を受ける色もピンクじゃなくて青や黄色など国によって違う。
 そのように自由でいいと思いつつ女子トイレが青、男子トイレが赤のマークだったら私はだまされてしまうはずだ。しっかり色の刷り込みがされている。
 デザインにおいて色の効果を知っていないといけない。この色とあの色でそんな印象を与えます。色相環で類似色や補色を学ぶわけだ。
 火は赤? 海は青? 葉っぱは緑? そうかもしれないけどそうじゃないかもしれない。
 共通の認識でわかりやすくイメージを伝えられるようになる。そして常識から離れ思考の幅を広げることを求められることもある。どっちも大事で無限だと思う。

 いわちゃんと話してるうちにほんのり空は暗くなった。腕時計の針は七時を指している。
「夏休みどうしてる?」
 まだ帰りたくなくて先のことを考えた。夏休みも今日みたいにいわちゃんとどっかへ遊びに行きたい。一日や二日じゃ足りない。当たり前だ。夏休みだもん。ずっと遊んでいたい。
 想像通り、いわちゃんの夏休みの大半は部活動だった。合宿も大会もあって大変だ。私も美術科の合宿には参加するけど比べ物にならないくらい忙しそうだ。
「丸一日空いてなくてもさ、家近いんだしここら辺で待ち合わせてご飯食べたり気軽に会おうよ」
 いわちゃんが言ってくれたことはとっても嬉しい。近所に住んでることに感謝した。
 それでも門限の時間が変わることはないし、私は嘘をついてるし、心の底から喜んではいけなかった。もっと悪いことをして上塗りしたい気持ちもある。
「懺悔します。門限は八時と言いましたが本当は七時半です」
 打って変わって敬虔な信徒になったつもりで告白した。
 いわちゃんは公園の時計を見て慌てた。早く帰るよう急かし、私の嘘を責める。
「門限破ったら怒られるでしょ? もっと厳しくされたり、私とはもう遊ぶなって言われたりしない?」
 そんなの嫌だ。両親にいわちゃんを娘の門限を破らせる悪い友達だと思われたくない。きっと佐己小さんの耳にも入る。いわちゃんはいい子で今日はすごく楽しかったって話すつもりなのに。
 それでもぐずぐずしてると、いわちゃんはベンチから私を立たせた。細くても力は私よりずっとある。ひょいと腕を引っ張られた。
 いわちゃんはミュージアムショップの袋の一つを手に取って私の目の前まで持ってきた。思わず受け取りそうになる。
「美術館のお土産? 何なに〜? 何買ったの?」
「長山さんに」
「え?」
「プレゼント」
 受け取っていいものだったのかと戸惑いながら手を伸ばした。袋を渡されると想像してない重さを感じた。地面にずんと落とすようなことはしないけど、例えるなら分厚い本のような重さ。そう、分厚い本のような。
 袋を覗くと今日行った展示会の図録が入っていた。欲しいけど諦めたと話した覚えはあった。でも、だからってどうして。
「今日のお礼」
「お礼⁉」
「しおり作ってきてくれて嬉しかった。美術館に来ること、もしかしたら一生なかったかもしれない。賢くなれた気がする。朋律に初めてプレゼント買えた。渡す時に有名な絵見てきたって自慢する。それに……」
 凛としているいわちゃんの声が改まったように感じた。実際にそうだったのかも。表情もいつもと違ってどこか強張っている。
「いつもありがとう。長山さん」
「……」
「毎週水曜日、結構、楽しみにしてる。長山さんと帰るの今までずっと楽しかった」
 普段、いわちゃんの口数は多くない。口下手とか恥ずかしがり屋ってわけではなくて聞き手に回るのが上手なんだ。私の話にうなずいたり、気になるところがあったら言ってくれる。私はただのおしゃべりだから、たまにふと不安になる。私と一緒にいて楽しいかって。
「これからも、こうして遊んでくれたら嬉しい」
 そのいわちゃんが言葉を紡いで今日までの思いを伝えてくれている。
「もっと仲良くなりたい」
 これ以上になれる? なってくれる? そしたらいつか私のこと、私がいわちゃんを楽しませたいと思うのと同じくらい好きになってくれる?
 あれ?
 私は私に驚いた。
「あたし、いわちゃんを──」
 自分で感じていたよりもずっといわちゃんを好きなのかもしれない。体が熱くなった。
 だけど同時に公園内に大きな風がわっと吹いて私の熱を一時的に冷ました。
「長山さん、さっき何か言いかけてた」
「忘れちゃった!」
 また嘘をついてしまう。ごまかすのは下手だけど、まだ秘密だ。思い付きでぽろっと口走ったりしたくない。きっと大事なことだから。
 風が待ったをかけてくれたおかげで私は落ち着いていられる。冷静だ。自分で考えられる。今、いわちゃんに伝えられることは何か。わかってる。
「いわちゃん! ありがとう!」
 これはお友達として感謝のハグ。いわちゃんのしっかりした細さを感じれば私はすぐ離れた。いわちゃんはぽかんとしている。よっぽどびっくりさせたようだった。ごめんね。
「また水曜日にね!」
 本当はもっと一緒にいたい。私はいわちゃんに手を振りながら走り始めた。
「前向いて! 気をつけて! 車とか!」
「うん!」
「家に着いたら連絡して!」
「はーい!」
 荷物は重いし走るのも不得意。それでも足を動かす。門限のためだけじゃない。
 驚きと恥ずかしさ。感じ取れたのはこれくらいだけど他にもあったかもしれない。それらの気持ちが私を走らせる。いや、私は走っているというよりも通行人や信号を気にしながらも暴れていた。本当は叫びたい。カラオケにでも行って思い切り言葉にならない声を発したい。

「たっ、ただ、ぁだいま……」
 家に着くとまともに声も出せなかった。肩で息をしてほんのりひんやりしていた式台に座り込む。私はもう一度冷静にならなくてはいけない。