スプリング・スプリング・スプリング #25

 私は理想の私になりたかった。人の長所を集めて最強の自分を作りたい。本来の私がいなくなるわけじゃない。人として一回りも二回りも大きくなるんだ。
 難しい計算も一瞬で正確にできて、たくさん本を読んで知識を取り入れて、控え目で、だけどきちんと自分の意見は言えて、いつだって冷静に物事を考えられる頼りがいのあるスポーツマン。十六年間、憧れてた。
 やっぱり努力は大変なものでちょっと真似して満足しちゃう。根性がないんだ。続けられてることって絵くらい。絵なら思うように描ける。それだってまだまだ未熟なんだけど。
 こんな私はいわちゃんに好かれるだろうか。

 いわちゃんとのデート帰りに急いで家へ戻った。あまりにも汗だくだったから食事前に入浴を母に命じられた。走ってる間、慣れない動きといわちゃんへの気づきで心臓も大変だったと思う。
 ちょうどいい冷たさのシャワーを浴びると頭も体もさっぱりスッキリする。これで精神統一されてもやもやが解消されたら良かった。そう上手くはいかない。体を冷やしすぎたせいか後ろ向きな考えがぼんやり出てきた。いわちゃんは私と同じ気持ちではないんだ。
『もっと仲良くなりたい』
 確かにいわちゃんはそう言った。きっと勇気を出してくれたんだと思う。緊張が私にも伝わってきた。まるで、そう、愛の告白でもされるんじゃないかと思った。
 しかし自分の恋心と目が合うと同時に叶いっこないって思い知らされる。ちょっとだけ涙が出た。こんな気持ちになるなら気づかなければ良かった。そう思ってしまいそうなところだけどシャワーで汗と一緒に流しきった。
 風呂の後すぐに夕食を食べたことで元気が出てポジティブだ。もりもり食べて水分も十分に取った。片思いの楽しさだけを知っているからなのか、これ以上は悲観的になれなかった。

 満腹になって自室の床に寝転がる。ビーズクッションの上に置いておいたミュージアムショップの袋が目について図録を出した。そっと大事に手に取ると家に着いたら連絡してといわちゃんに言われていたことを思い出した。
『遅くなってごめんね! ご飯間に合いました』
 短い文を送る。いわちゃんもご飯とお風呂を済ませてもう寝てるかもしれない。起きててほしいと願ったらすぐに返事が来た。
『よかった 今日は本当に楽しかったです ありがとう』
『こちらこそありがとう! またお出かけしましょう!』
『行こう』
 会話が終わってしまう。まだ続けたい。どうしよう。文字を打って消すのを二、三回繰り返して画面とにらめっこした。電話をかけてもいいだろうか。それは迷惑かな。
『寝ちゃった? おやすみなさい』
 そうこうしてたらいわちゃんから締めの挨拶が来てしまった。無理に引き止めるのも悪いのでこのまま解散することに決めた。
『ごめん! 一瞬うとうとしてた! おやすみなさい また水曜!』
『うん 水曜に』
 次の水曜日。いわちゃんと顔を合わせたらどうなっちゃうだろう。これまで通りにできるかな。今までよく平気でいられたものだ。
 いいや。浮かれていたよ。週に一度、一緒に帰るような仲になって。中学の頃から友達になりたいって思ってた子だもん。本当に友達になれた。そう。私たち、友達なのね。
 一人の人物に抱く感情がここまで一瞬で急激に変化するなんて初めてだ。知らない新しい気持ちが体の奥の方から湧き出てくるような体験をみんな経験してるのだろうか。どうやって対応してるんだろう。私はどうしようか。

 布団に寝転がって図録を広げる。軽い力でページを抑えた。今日見た展示品たちが隈なく載っている。このまま見続ければ集中して日付が変わってしまう予感がしてすぐに閉じた。明日の学校の準備もしていない。また今度じっくり見よう。
 時間割を確認して、ミュージアムショップの袋からひので君と真生君に渡すために買ったポストカードを抜く。お土産用の封筒みたいな袋に入れて、折れないようにクリアファイルに挟んだ。
 ひので君に早く報告したい。今日のデートは間違いなくいいものだった。私にとっても、いわちゃんにとっても絶対。どうしてそう言えるのか、出来事を事細かく話してしまいたい。
 それに、どれだけ私が動揺したか。言ったらひので君はあきれるかな。からかうかな。真生君は黙って聞いてくれるだろうな。裏腹に私といわちゃんの二人だけの秘密にしておきたい思いもある。
 佐己小さんにも話を聞いてもらいたい。どうしよう。言っちゃおうかな。好きな人ができたんだよ。公園で一緒にいたあの子だよ。きれいな女の子だったでしょ。性格も素敵だよ。
 最初はクールだと思ってたけど実はちょっとのんびりさんなのかも。あまり人に興味ないみたい。来るもの拒まず去るもの追わずっていうのかな。堂々としててかっこいいけどね。人間関係にこだわりがなさそうなの。そんな子が私に合わせて美術館に行ってくれた。もっと仲良くなりたいって言ってくれた。それだけで好きになってしまった。
 だけど、いわちゃんを好きだってことを一番に伝えるのはいわちゃんがいい。初めて知るのはいわちゃんじゃないと駄目。まだ勇気は出ないからいつの日か。おばあちゃんになってもずっと言えないかもしれない。とにかく少なくとも今は秘密の人なんだ。

 図録を両腕で抱きしめた。真新しい硬い紙の匂いがする。
 すぐ取り出せるように机のそばに置いてある本棚にしまう。ここには画集や技法書を収納してる。小学生の頃からお小遣いをこつこつ貯めて新品を買ったり、古本屋で偶然出会って自分のものにした本たち。そこにいわちゃんからのプレゼントが加わった。突然の仲間入りだ。私は本の背表紙を撫でた。おやすみなさい。
 部屋の電気を消して再び布団に横たわる。扇風機が首を振ってぶんぶん動いている。私の前髪を微風がかすめる。信じられないことにこの部屋にはクーラーがない。暑い夜が続くのに。扇風機の小さなリモコンで設定を弱から強に変更した。
 似たような繰り返しの毎日だとしても同じ日は二度と来ない。誰だってそう。だけど明日以降は今日までと確実に違う。私の世界が変わってしまった。
 体がふわふわと浮かんで富士山も越えて月まで行ってしまいそう。地球をこの目で見て名言になるようなことを呟くのだ。それからとても大きな名画も誕生する。
 でも、しっかり地上にいなくてはいけない。彼女の走る大地に足をつけていたい。
 跳んでいかないよう私は夏用の薄手の掛け布団を抱き枕にしてしがみついた。ツルツルした素材がひんやりして気持ちいい。夢心地のまま私は眠りに就いた。そこでもやはり私は上の空なのだろう。