情熱冷めるまで #01

 ここはいつでも様々な音が自由に響いていた。先生についてもらって教室で練習している人や友人たちと中庭で即興演奏を楽しむ人。歌声や楽器の音色がどこにいたって聞こえてくる。
 人によってにぎやかで楽しいと思うだろうし、うるさいと感じる人もいるはずだ。だけどここはそういう場所で、僕もその一部だった。今は誰にも聞こえないようこっそりしているけれど、いつか僕の今の歌声で誰かの足が止められるようになるんだ。そのためにここにいる。
 音楽科の校舎にはいくつも同じような教室がある。全部防音室だと聞いている。僕は部活のない日にそのうちの一室を借りる。一階の隅にある教室。みんな家へ帰るか部活に勤しんでいる時間だからこの部屋に人が来ることは滅多にない。僕は心置きなく声を出せる。

 四月の末の放課後、ふと音楽室の窓の外を見ると人影が見えた。この部屋から見える建物は美術科の校舎だ。そこに隣接している小さなプレハブ小屋に人がいる。ずっと物置だと思って特別気に留めていなかった。
 きっと美術科の人だ。整理整頓でもしてるのかと思ったけど違うらしい。三脚のような道具に紙を立てかけて絵を描いてるように見えた。
 道具が邪魔でその人はよく見えない。僕のように放課後まで残って課題でもやっているんだろうか。姿勢がまっすぐなのがわかる。かっこいい。僕が絵を描く人なら絵を描いてるこの人を描いてみたい。普段絵を描くことはないのにそう思った。
 窓際に寄ってぼうっとプレハブ小屋を見ていた。届きそうだな。無意識に手を伸ばしてガラスに手が当たった。すると中にいる人がひょいとこちらに顔を向けて僕たちは目が合ってしまった。
 男子だ。初めて見るはずなのになんだかとても懐かしい顔立ちで驚いた。
 相手は立ち上がり窓に近づいてきた。思わず僕は一歩下がった。驚きは消えて怖くなった。初めてのピアノ教室の発表会で一番年上だったお姉さんのドレス姿がきれいでずっと見ていたらからかわれたこと。中学生の頃、たまたま下校が遅くなった日に駅の階段で転んだ酔っぱらいに「何見てるんだ」と怒鳴られたこと。この二つの記憶が瞬時に蘇ってその頃の気持ちが混ざった。
 でも、その気持ちもすぐになくなった。
 彼はにっと笑って手招きをしていた。しっかりと僕に対してだ。
 怒ってはないのかもしれないけど何か言われるのだろうか。怒鳴られなければ、いいか。僕は教室の窓を開ける。窓枠に足をかけて外へ出た。音楽科の校舎からプレハブまでは距離はない。歩いてすぐ。とても近い。
 内側からドアが開いて彼が出てきた。
「いらっしゃい」
 彼は制服の上にぶかぶかのパーカーを羽織っていた。僕より少し小柄だ。やはり親しみの持てる顔をしている。
「まさか窓から来るとは思わなかった」
 そう言って彼は笑った。笑われて恥ずかしく感じた。近いからって窓から出るのは流石に行儀が悪いか。
「入って。どうぞ座って」
 美術の大きい道具や机の上の小さい道具をどかしながら彼は話す。僕は小さい木の椅子に座った。ずっと座ってたらお尻が痛くなりそうだ。
「音楽科の人ですよね。最近いつも歌声が聞こえてくる」
「すみません。防音室のはずなんですけど距離が近いとどうしても聞こえてきますね。うるさかったですか?」
「いいよ。俺きれいなの好きだかんね。お得だ。あれはなんの歌なの? オペラ?」
 彼は軽く口ずさむ。大方正しい音程とリズムだった。音漏れは仕方ないけどこうもしっかり聞かれていたなんて。
 僕はここ数日、音楽科オリジナルの課題曲を練習していると説明した。あまり好きではない曲だからか上手く歌えない。そのうちテストがあるのであの教室を借りて自由に歌っていた。
「心地よく歌うもんだ」
「はは……」
「そんで、さっきは何を見てたの?」
「あ、いえ……ここって人が来るんだと思って……」
 物置小屋だと思っていた場所に人がいたのが意外だったと正直に話した。こんなところが教室で、絵を描く人がいるとは思わなかった。背筋がいいと思ったことは言わずにおいた。
「ここ、物置で合ってるよ。他に空き教室あるって先生も言ってくれたけどここが良かったから使わせてもらってんの」
「どうして物置に?」
「誰もいないしいい歌声が聞こえるし物がごちゃごちゃしてて落ち着く」
「誰もいないところに人を呼んじゃっていいんですか?」
「先生はたまに来るけどまぁ気にならないし、今は息抜きに付き合ってもらってるし」
「息抜き……あの、それでも、お絵描きの邪魔じゃなかったですか?」
「お絵描きって」
 彼は笑いながら壁に立てかけてあった大きいスケッチブックを見せてきた。
「そこにあるアグリッパのデッサンしてた。面取りって知ってる?」
 僕は何もわからなかった。
「上手ですね。白いところ、よく見ると白くなくてすごいです」
「ありがとう。もっと褒めてね」
 よく笑う人だ。けらけらと笑うってこういうことなんだと思う。にこにことは違う。
「またおいで」彼は笑って言った。「俺、他の科の知り合いいないんだ。俺も一年。友達になってよ」
 なんだか小さい子みたい。お友達になりましょうって。かわいいな。今度は僕が笑った。
「いいですよ。放課後はいつもここにいるんですか?」
「うん、大体は。好きな時に遊びに来てよ。歌の練習飽きた時とか音楽科の嫌な奴の愚痴言いたい時とか」
 そういう時は今のところないけど、話しやすい人なので良くないこともぽろっと言えちゃうかもしれない。
「ねえ、名前なんてえの?」
 大切なことを伝えてなかった。クラスも教えておく。彼が僕の教室に来ることはないだろうけど念のため。
 漢字も尋ねられて口で説明しようとしたら彼はパーカーのポケットからメモ帳を取り出した。ボールペンもどこからか出して貸してくれた。
 僕も彼の名前とクラスを教えてもらった。名前までどこかで聞いたことのあるような初めて知るすっとした氏名だった。