情熱冷めるまで #02

 月曜日の放課後は思うように体を動かせなくなる。最後の授業が体育だからだとわかっているけど普通の疲労とは違っただるさだった。運動は好きなのに体育の後には必ず眠気に襲われて何もできそうにない。
 せっかく借りてる教室に来たけど今日は自主練より体調を優先しようか。声を出せば目が覚めるかもしれないけど声を出したくない。ここに来るまでにまた体が重くなった気がした。
 土日を挟んだ教室は少し埃っぽく感じる。カーテンを開けた。暗い教室に日が入る。窓際はぽかぽかする。五月だ。

 向かいにあるプレハブ小屋はそばに立つ樹木の木漏れ日がかかっている。窓から彼の顔が見えた。木製の大きなテーブルで文字を書いてるようだ。絵ではない。何してるんだろう。声をかけたくなる。今向こうに行ったら邪魔になるかな。
 窓を開けた。周りに人がいないか確認する。誰かに見つからなければいい。今度もまた窓から外に出た。風が気持ちいい。
 プレハブ小屋の扉を二回ノックする。この間のように出てきてくれるかと思っていた。数秒待っても出て来ない。居留守を使われている。窓から覗いてみようとそちらへ向いた瞬間、すでにこちらは覗かれていた。
深川ふかがわ君!」
 驚いて大きな声を出してしまった。
「なんだ、誰かと思った。勝手に入ってきなよ」
 呆れたような力の抜けた言い方をされた。僕は言われた通りにする。三日ぶりに入るプレハブ小屋は変わらず物がごちゃごちゃしていた。
 ホワイトボードが三枚も重なって置いてある。一角はダンボールの山になっていて通学カバンとトートバッグとこの間見たパーカーが雑に置かれていた。
 僕と同じ今年度の一年生の学年カラーである紺色の、美術科の証であるクロスタイが彼の襟に見える。新品のそれは誇らしさを感じる。
「急にノック聞こえたと思ったらなんにも言わないし誰も入ってこないし。びっくりした」
「ごめん。僕も驚いたけど驚かせちゃいましたね」
「うん、びっくりした。なんか、来ないかと思ってたんで」テーブルを見てぼそっと言う。「いや、好きな時に来いって俺が言ったんだけど」
「今、何してたんですか?」
「宿題。数学のプリント一枚だしすぐ終わるかと思ったら全然終わらん」
 宿題に集中してたのだろう。音楽科と美術科で共通の授業の進み具合は同じなのだろうか。プリントを見せてもらおうとしたら深川君は自分のお腹を撫でた。
「腹減ったな。何か食べる?」
「何があるんですか?」
「食パンしかない」
 そう言って深川君は水色の薄いトートバッグから袋に入った市販の食パンを出した。もう数枚食べられているようだった。
「そのまま食う? 焼く?」
 僕に尋ねながらホワイトボードの裏側からトースターを出してきた。
「これどうしたんですか? ここの物?」
「先生が使わない古いのがあるけどまだ使えるから欲しい人いますかって。じゃんけん勝って俺がもらって持ってきた」
 あまり納得できない答えだったけどパンをトーストしてもらうことにした。ふわふわも美味しいけど焼いてサクサクになった表面が好きだ。袋から二枚出してトースターに並べて入れてとりあえず三分にセットする。
「ぼろいから焼きあがるまで時間かかるかもって先生言ってたけど急に焦げたら嫌だから見張っておく」
 それから深川君は何も話さないで食パンを見つめていた。
 その間にさっき彼が戦っていたプリントを見てみた。先週習ったところだ。覚えている。深川君はこれを自分の力で解きたいだろうか。教えるのは余計なお世話かな。
 ずっと近くでパンを見ている深川君の顔は加熱されたトースターのヒーターに照らされて一緒に赤くなっている。
「今更だけどバターとかジャムとか塗るもの何もないけどこのまま食える?」
 彼はパンだけを見つめながら訊いてきた。
「大丈夫です」
「へい」
 再び沈黙が続いてまたパンを見てる彼を見続けていたらチーンとトースターが音を鳴らした。二人でガラス窓から中を覗く。
「どう? いい感じに焦げ目ついて美味そうだよな? 普通に焼けるじゃんね」
「うん。美味しそう」
「お前、まだまだ現役だな」
 ぽんぽんとトースターを撫でる真似をして深川君が開けるとパンの香りがふわっとした。熱い熱いと言いながら一枚を渡してくれた。本当に熱い。
「いただきます」
 一回だけふうっと息で冷まして一口食べる。サクッとふんわりしていて美味しい。
 そういえばさっきまで疲れていたことを思い出した。だからなおのこと美味しく感じるのかな。ぺろりと食べ終えた。深川君は両手で大切そうにパンを持ってハムスターみたいに食べていた。
「やっぱジャム欲しいよな。あと飲み物」
「自販機で買ってきましょうか。パンご馳走になったので」
「そこまでしなくていいよ。こんな安いパン一枚に。もう食い終わるし」
 深川君が笑った。あと一口で彼のパンはなくなる。
「どこで買えるパンですか?」
「そこら辺のスーパーとかコンビニで売ってるよ。そんなに美味かった?」
「はい。元気出たくらい」
「元気なかったの?」
 笑ってた深川君が真顔になった。
「いえ、今日ラストが体育だったので少しぐったりしてたんです」
「そうなんだ。体育苦手?」
「好きですよ。好きなので、張り切っちゃうのかな。楽しみな授業の一つだし。いつも疲れてふらふらしたり眠くなるんです」
「子供か」
 深川君は大きく笑った。そんなにおかしかったかな。
「でも、それってもしかして低血糖とかじゃないの? 詳しくないからわからないけど体育の前後に何か食べた方がいいよ」
「低血糖……」
 聞きなれない病気のような単語に怖くなったけど、熱中症にならないために暑さを避けたりこまめに水分補給するようなものだろうか。帰ったら調べてみよう。
「俺は体育好きじゃないから省エネ。好きな教科なんてほぼないんだけど」
 テーブルに置いてあるやりかけのプリントを見て深川君は溜息をついた。
「もし、お節介じゃなければ数学お教えしましょうか」
 ふと言葉が出てきた。するりと。そして言い訳のように「パンのお礼です」と続けた。
「飲み物より助かる!」
 彼はにかっと笑いカチカチっとシャープペンの芯を出してやる気を見せた。