情熱冷めるまで #05

 梅雨に入った。雨の日が続く中、課題曲の試験が行われた。先生は小テストのようなものだと言っていて周りも特に緊張した様子はなかった。先生がピアノやメモの準備をしている間もクラスメイトは小声で談笑している。
 しかし僕はどうしても身構えずにはいられない。自信のなさと負けん気が同じくらいの強さで僕に宿っている。
 試験が始まればそれなりにピリッとした空気になった。番号順に歌う。歌詞を間違えたり大きく音程を外したりする人もいたけれど順調に試験は進む。一人が歌い終わると「はい。では次の人」とだけ言っていた先生は僕の番が終わるとにこやかに笑って「大変よろしい」と微笑んだ。

 放課後、僕はいつもの教室を借りる必要がなくなったことについて考えた。しばらく歌のテストもない。もう窓から出入りすることもない。
 だけどそんなことしなくても深川君に会える。今日はまず彼に報告したかった。テストが終わったこと。自分でも満足できるくらい上手く歌えたこと。先生にも褒められたこと。聞いてもらいたかった。
 下駄箱で靴を履き替えた。雨が強かったのでカバンに入ってる折り畳み傘を探した。ない。今の季節に傘を忘れるとは。今朝は雨が降っていなかったから部屋か玄関に置いてきてしまったのか。どうしようかな。職員室で傘を借りられるだろうか。そう考えつつも僕は雨に打たれてプレハブ小屋へ走った。

「びっしょびしょじゃん」
 深川君がスケッチブックに絵を描いていた。彼の首にはタオルがかけてあり髪や制服が少し濡れていた。
「深川君もここまで傘差してこなかったの?」
「まぁね。盗られた」
「えっ⁉ 困ったね。間違えて持ってかれちゃったのかな? 戻って来るといいね……」
「もう使い古したビニール傘だし期待しない。お前も傘持ってない?」
「朝持ってきたつもりだったんだけど忘れたみたい」
「なーんだ。友達みんな部活やら掃除当番だから駅まで入れてもらおうと思ったのに」
「美術科の職員室で傘借りられるかどう──うわっ」
 突然視界がふさがった。柔らかくて少し湿ったものが頭に覆いかぶさる。
「まずは拭きなさいよ。風邪引いたら歌えなくなるっしょ」
「あ、ありがと……」
 深川君に放り投げられたタオルで髪を拭いた。
「……あ!」
 大きな声を出した深川君は辺りを見渡す。「どこかで……」と呟いてダンボールの山に近づく。きょろきょろと何か探している。
「あった! 傘あった! ここのどこかで傘見かけたなーって思ったんだよね!」
 ダンボールの横に小さいゴミ箱が隠れており、その中に黒い傘が入っていた。広げると埃が舞った。汚れてるけど骨は折れていないし穴なども見当たらない。頑丈そうな傘だ。
「汚いな」
 彼はポケットティッシュを複数枚取り出した。窓を開けてティッシュを雨に濡らし傘を水拭きする。
「きっと使われるの久々で雨に驚くだろうから慣らしといた」
 よくわからないけど僕は笑ってしまった。

 それからちょっとお喋りして帰ることにした。プレハブ小屋の外に出て深川君が傘を広げる。
「ん」
 黙って彼の隣に入る。大きな傘なので二人の肩も濡れずに済みそうだ。プレハブ小屋の鍵を返却しに美術科の校舎へ向かい歩き出す。
「僕のが背高いから僕が持つよ」
「そんな変わんないじゃん」
「そうかな」
「そうだよ。でもいいや。代わって」
 傘を受け取る時に彼の手の甲に緑の塗料が付いているのを見つけた。絵具かな。「身長何センチ?」か「今日絵具使ったの?」のどちらを言おうか迷っていたらもう美術科の校舎に着いた。

 深川君が鍵を返しに美術科の職員室へ行ってる間、僕は玄関で待った。雨はずっとざあざあ降りだ。雨の音は気持ちがいい。
 そういえば美術科の職員室前はごちゃごちゃしてるって深川君が言っていた。僕もそちらへ行く機会があるだろうか。
「返してきた!」
 すぐに深川君は戻ってきた。
「走ってきたの?」
「そりゃ人待たせてるわけだし。雨ん中って意外と寒いじゃん」
 少し息を切らしている深川君を見てこないだ一緒に歌ったことを思い出した。
「駅までどっか寄るとこあるか?」
「深川君。僕、駅じゃないんだ」
「え? バス通なの?」
「寮に入ってる」
「寮⁉ いいなぁ。一人暮らしかぁ」
 僕の家から学校まではバスと電車でほぼ二時間かかる。僕は朝が苦手なので母がいっそ寮に入っちゃいなさいと言いその通りにした。父には心配されたけど深川君の想像のように一人暮らしをするわけではない。
「体育科の先輩と相部屋だよ」
「なんだ。一人部屋じゃないんか」
「うん。どこも二人部屋。ご飯もお風呂も必ず誰かいるよ。寮生のほとんどが体育科の人で、みんな朝練あって起きるの早いんだよ。すごいよね」
「体育科か……先輩、怖い人?」
「すっごく優しいよ。先輩はいつも五時か六時に自分の目覚ましで起きるんだけど、その後に僕が起きる七時半にセットしてくれるんだ。二つあれば僕も起きられるし助かってる」
「俺も毎朝起きるの辛い」
「深川君も朝苦手なの? 早起き得意そうな名前なのに?」
「うるさいなあ」
「次、右に曲がるよ」
 学校から寮までゆっくり歩いて十五分くらい。大通りの信号を渡らなくてはならない。切り替わるのが長い信号なので歩道橋を使う。急いでる時に赤信号だともどかしいからほとんど毎日歩道橋を渡っている。そこを通過すればすぐに寮の建物が二棟見える。片方は女子寮。未知の領域だ。
「学生寮ってボロいイメージだったけど結構きれいだな。広そうだし」
 彼はへぇと寮の玄関を興味深そうに見ていた。僕は管理人室を見る。誰もいないようだ。
「中入る?」
「入っていいの?」
「寮生以外入っちゃ駄目だけど」
「じゃあ駄目じゃん。帰るわ」
「遠回りさせてごめんね。ありがとう」
「いいよ。またな」
「あのね」
 もう背を向けていた深川君を引き留めた。
「今日、課題曲の試験があって上手く歌えて褒められたよ」
「やったじゃん! 練習した甲斐あったな」
「うん、本当。ありがとう。それだけ」
「ほーい」

 深川くんと玄関で別れて自分の部屋に帰る。廊下で音楽科の先輩とすれ違い挨拶する。
 部屋に入ると真っ暗だ。いつものように先輩はまだ帰っていない。雨だからきっと室内でトレーニングしているのだろう。夕食まで頑張ってるはずだ。
 机の上に今朝持ったつもりでいた折りたたみ傘が置いてあった。小さい傘だけどあれば心強い。明日もきっと使うからすぐにカバンにしまった。
 僕は急に寒さを感じた。右の肩がぐっしょり濡れてシャツが張りついていた。