情熱冷めるまで #07

 夜、寮の明かりが消える前に玄関の近くで母に電話した。部屋でかけても構わないと同室の先輩は言ってくれるけど家族と話してるのを聞かれるのはどうも恥ずかしいのでいつも誰もいない場所を探す。
『お友達が泊まりに来るの?』
 今度の土曜日に家へ帰ることを伝えた後に深川君の話をすると電話越しの母の声が高くなった。
『いつ来るかもう決まってる? 夏休みが終わるまでいるの?』
「ううん。八月の四日から何日か泊ってもいい?」
『四日からって、それじゃお出かけと被ってるじゃない。ずらせないの?』
「それ以外はちょっと都合が悪い」
『あっ、なら一緒に来てもらう?』
「旅行に⁉ 駄目だよ! 江ノ島行こうって話したんだから」
『……わかった。あなたは今年も欠席ね。残念だけどせっかくお友達が来てくれるんだもんね。遊びなさい』
 母の声が落ち込んだと思ったらいつものトーンに戻る。
『……でも四日ってことは私たちとは一泊できるのね。どんな子? 同じ声楽の子?』
「美術科の友達だよ」
『美術科?』
 また母の声は跳ね上がる。母は自分と共通点のある人が好きだが未知なる人物にも興味津々だ。無邪気な人だと思う。
『お母さん、美術のことはわからないけど楽しそうね。お喋り好きな子かな?』
「どうだろう。お母さんに合わせてくれるかも」
『いい子なのね。会うの楽しみだな』
「うん。もうそろそろ消灯時間だから切るね」
『はーい。その子の好きな食べ物とか教えてちょうだいね』
 「おやすみ」と言い電話を切って自分の部屋へ戻った。

 次の日の放課後、プレハブ小屋へ行くと深川君が掃き掃除をしていた。掃除のため扇風機は使われておらず窓は全開だ。
 ここにはいくつかごみ箱のようなものがあるけどメインに使っているものはきちんとゴミ捨てに行って清潔に保っているようだった。よく食パンをご馳走になるからパン屑なんかも落ちてるんだろう。
「僕も手伝おうか?」
「箒一本しかないからいいよ。座ってな」
「ちりとり係やるよ」
 プレハブの床のゴミを集めると消しカスが目立つ。近頃の深川君はスケッチブックにちょっと描いてはちょっと消し、ちょっと描いてはちょっと消してを繰り返して消しカスが大量生産されている。

 掃除を一通り終えた。ゴミを出して、近くの水道で手も洗った。
 深川君は開けていた窓も閉めて帰る準備を始める。トートバッグにしまわれてしまう前にそれを指差して僕は尋ねた。
「最近スケッチブックに何描いているの?」
「これスケッチブックじゃなくてクロッキー帳だけど」
「違うの?」
「スケッチブックのが紙が厚くてしっかり描く用、クロッキー帳がペラペラで雑にがーって描く用」
「そうなんだ」
 デッサンをする時には食パンや練り消しを使うこともちょっと前に知った。普通の消しゴムでは紙が傷むらしい。知らないことだらけだ。
「もうすぐ弟が誕生日なんだよね」
「深川君、お兄ちゃんなんだ」
 初耳だ。深川君の家族の話は聞いたことがない。
「弟が生まれた時から毎年カードみたいなの渡しててさ。動物が大好きだから絵描いてプレゼントと一緒にあげてるんだけど、いつも似たようなのにならないようデザイン考えさせられるんだよね。家で描いてると何描いてるの~? って覗いてくるし」
「仲がいいんだね。何歳なの?」
「小二。まだ小さいからすごく喜んでくれるけど、まぁ、そのうちね……」
「そうかな? 僕は欲しいけど。仲のいいお兄さんからなら大きくなっても毎年楽しみじゃないかな」
「そっかな~? そうだったら、ちょっと大変なんだけど、いやぁ」
 深川君は笑う。そして照れ隠しなのかわからないけどからかう顔をした。
「しかし家族の仲ならあなたの家ほどじゃないですよ。毎年旅行なんて羨ましいですわ」
「え? あっ、そうだ! そうだよ!」
 僕の家の話になって思い出した。深川君と顔を合わせると様々な話題が溢れて言おうとしてた話を忘れてしまうことがある。
「母が泊まりに来てどうぞって! 昨日電話して許可もらったよ。やっぱり会いたがってたよ」
「……そっか。手土産どういうのがいい? そこら辺に売ってるプレゼント用の缶のお菓子とかお口に合うんだろうか?」
「気遣わなくていいよ。でも、うちはみんな甘いもの大好きだよ。和も洋も」
「何かしら持って行きます」
「母が深川君は何がお好きですかって。食べ物」
「俺は肉と魚が好き。でもそっちこそ気遣わないでいいよ」
 深川君はクロッキー帳のページを素早くめくって「どうすっかなー」と呟いた。パラパラ漫画ではないけれど深川君の描いたものの一部が一瞬だけ次々と現れた。言われてみれば確かにクロッキー帳は紙が薄い。
「ねえ、こっち見てもいい?」
 そう言って僕はテーブルに置いてあるスケッチブックに手を伸ばした。深川君が絵を描いている姿は何度も見ているが作品そのものはしっかり見たことがない。見てみたくなった。

「駄目‼」

 深川君が短く叫んだ。僕より先に彼の手がスケッチブックに届いて没収されてしまった。競技かるたのようだった。多分、僕がスケッチブックを突然見ようとしたことも、それを瞬時に強く拒否されたことも予想外な出来事でお互いがお互いに驚いていた。
 僕は謝ろうと口を開いたけど、また深川君の方が先に動いた。
「その、これ、授業用じゃなくて、どのページも未完成なんだよね。落描きだらけで見られるのちょっと恥ずかしいかなぁ⁉ 見せるなら俺の本気を見てもらいたいっていうか……」
「勝手にごめんね」
「いやいや。俺も、でかい声出してすまんね」
「ううん……」
「……」
 僕たちは針の筵に座っていた。

 心地悪い思いをしていたらドドンとプレハブ小屋の扉が叩かれた。「入るよ」と言いながら、いつか深川君と荷物を運んできた美術科の女性の先生が入ってきた。
「なんで窓閉め切ってるの? 二人とも汗すごいよ。熱中症になっちゃうよ」
 僕は深川君を見た。確かに汗をかいていた。汗を拭いながら深川君は先生に話す。
「もう帰るところです。先生はどうしたんです?」
「夏休みも直前だから色々チェックしてるの。きれいにここ使ってくれてる?」
「さっき俺たち掃除したんですよ」
「あら! 偉い!」
 先生はいくつかダンボールの中身を確認し、持っているクリップボードに挟んである用紙に短い文字を記入した。トースターの入っているダンボールが素通りされて安心した。
「お二人さん、お帰りなんだっけ?」
「あ、はい。帰ります」
「先生が鍵返してといてあげる」
「いいすか? ありがとうございます。お願いします」
 深川君は先生に鍵を託しプレハブ小屋から出た。僕も後を追う。
「深川君、もう帰る?」
 プレハブにいる先生には聞こえないだろうけど小さな声で僕は尋ねた。
「帰りますかね」
「時間平気なら、どっか寄り道して夏休みのこと話さない? 待ち合わせとか」
「いいよ」
 了解を得たけど僕たちはしっくりしていなかった。