情熱冷めるまで #10

 八月五日の朝になった。母たちは予定通り旅立つ。今年の滞在先は伊豆だ。小さい頃に僕も一度行った。
「ご飯ちゃんと食べてね。夜更かしもあまりしないで。深川君、この子ね、起こさないとお昼過ぎても寝てるから起こしてやってね。三日間どうぞよろしくね」
 そう言い残して颯爽と出発した。僕たちはまだ寝巻きのままだった。
「これから俺たちはどうすんの」
「とりあえず着替えよう。今日は鎌倉に行くよ。朝ごはんはあっちで食べよう。ご要望の美術館も鎌倉だよ」

 藤沢から鎌倉まで約三十五分。初めて乗る江ノ電に深川君はずっと目を輝かせていた。
 鎌倉で有名ないつも混んでる喫茶店には待つことなくすんなり入れた。名物のホットケーキは数十分待ったけど美味しかった。
 次に美術館へ行った。着物の女性のきれいな絵がたくさんあって僕はそれをただ見ているだけだったけど深川君はレポートのためにしっかりメモを取って展示室をじっくり回っていた。帰り際に図録を買っていた。僕も記念に一筆箋を買った。
 行く先々で深川君は写真を撮る。そして気に入ったであろう場所ではクロッキー帳をトートバッグから出して絵を描いていく。そのスピードがすごいのなんの。迷いが一切ない。ささっと描き上げてしまう。人の多い場所では邪魔にならない端に寄って五分くらいで描き終える。
「すごい。僕はどこから描き始めればいいのかさえわからないよ」
「適当にこう、全体を想像して、適当に線を……」
「適当なのに上手だ」
「もっと褒めてくれ」そう言いながら鉛筆とクロッキー帳をしまう。「お次はどこ?」と深川君は僕を見上げた。

 あちこち歩いた。神社やお寺。もっと穴場とか教えてあげられたら良かったんだけど有名な観光名所ばかり。
「夕飯はどこで何食う?」
「どうしよっか。何食べたい? あ、野菜いっぱいあるし家で作る?」
「それでもいいけど作れんの?」
「できないけどやりたい! その場にある食材でパパッと作ってみたい!」
「そういうのは上級者のすることだ。肉野菜炒めくらいしか作れないぞ」
「いいね! それ作ろう!」
 父の趣味の一つが料理なのでよく作ってくれるけど僕は食器を出したりフォークやナイフを並べるくらいしかしたことがない。基本的に外食が多くて僕が料理する機会はなかった。
「家に肉とか米ある?」
「昨日のバーベキューの食材ならちょっとは残ってるんじゃないかな? お米はわからないや」
「主食はコンビニで買おう」
 家の近くのコンビニへ寄った。深川君はおにぎりをいくつかカゴに入れた。僕はパンの気分だったので三個選んだ。
「お前! 肉野菜炒めにパンでいいのか⁉」
「え⁉ 駄目かな?」
「本人がいいならいいよ」
「ねえ、深川君。お菓子も買う? 夕飯食べたら映画観ようよ。その時用に買わない?」
「俺、夜は課題進めようと思ってんだけど」
「そう、だったね……」
「今日の分は早く終わらせるよ」
「うん……! ありがとう!」
 深川君は遊びに来てるだけじゃない。課題をやることも目的なんだから僕がそれを邪魔したらいけない。僕の気持ちを汲んでくれる深川君に甘えては駄目だ。それでもどうしても浮かれてしまう。だって深川君が学校以外の僕の生活圏にいるんだから。

「……豚バラでもあれば良かったけどベーコンかぁ」
 うちの冷蔵庫や冷凍庫を見て深川君は呟く。バーベキューの材料はほとんどなかった。僕も深川君もたくさん食べたもんなぁ。
「ベーコンじゃ駄目?」
「悪くないけど……他のにする?」
「すごい! 深川君は料理が色々できるんだね!」
「簡単に炒めたり焼いたり煮込んだりくらいなら」
「煮込むってスープ?」
「そうだなぁ」
「じゃあスープ作ろう!」
「暑いじゃん」
「クーラーの温度下げれば大丈夫!」
「そうかい」
 リクエストの許可をもらってトマトのスープを作ることになった。僕は深川君の言う通りにニンジンやピーマン、玉ねぎ、ベーコンなどを細かく切った。危なっかしいと心配されたけどひたすら切る作業は楽しかった。ニンジンの皮を剥こうとした時、深川君はそのままでいいと言った。
 完成したスープの真ん中に丸々一つのトマトが飾られている。火が通ってとろとろだった。
「深川君はよく家でご飯作るの?」
「たまーに適当に」
「適当でも美味しいよ。絵も料理も上手なんだなぁ」
「んん。褒められて悪い気しないけど本当に手抜き料理だし……」
「すっごく美味しいよ!」
 皿洗いも二人でやった。お湯で食器を洗うと乾きやすくなって拭くのが楽になると教えてもらった。食後の洗い物は面倒だと深川君は言ったけど僕は楽しかった。お腹が満たされていたからか幸せに感じるくらい。

 その後は別行動だった。僕は風呂に入って、深川君は作業場へ籠った。
 今日の分の課題がどれくらいで終わるのかわからずひたすら暇だった。リビングでテレビを見ても頭に入らない。少し眠くなった。すると電話が鳴ってすっかり目が覚めた。母からだ。夕飯を食べたか確認された。深川君が作ってくれたことと今は作業中であることを伝えると母は感心していた。
 風に当たろうと思ってテラスデッキへ出てみた。
 家に深川君がいるのは不思議だと思った。彼とはほとんどプレハブ小屋でしか会ったことがない。同じ学校に通ってるのに科が違うと他校生のようだと先生が言っていたのを思い出す。その通りだ。せめて隣のクラスだったらいいのに。
 久々に課題曲を歌った。鼻歌で小さく。初めて聞いた時に比べてとても好きになった。歌っていて楽しい。
「それ、課題曲?」
 後ろから音もなく深川君がやって来た。心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「眠いならもう寝るか?」
「どうして? 映画は?」
「さっき寝てたろ」
「僕? 寝てた?」
「寝てたよ。リビングで気持ち良さそうに。テレビ点けっぱなしで」
 そう言われてみれば電話に出た時に見ていたはずのテレビの電源は勝手に消えていた。
「風呂上がったらいなくなってて探したよ。いいな、ここ。俺んちにも欲しい」
「ごめん……」
 僕の心臓はまだどきどきしていた。
「トマト食べる?」
 ひんやり冷えたトマトを渡された。彼曰く、そのまま丸かじりするのが一番美味しい食べ方らしい。深川君は普段からこうして食べているのかヘタだけ残してきれいに食べ終えた。一方、僕は慣れない食べ方のせいで手と口がびしゃびしゃになった。

 手と口のついでに顔を洗ってから映画を再生する。完全に目が覚めた。
 もう十時なのに三時間近くあるものを選んでしまったので、僕たちは深夜ならではの開放的で陽気な状態となった。映画の印象に残ったシーンを振り返り、語らい、再現して大いに盛り上がった。これまた観客がいないのがもったいないほどだ。

 気づいたら深川君に起こされた。映画の後、そのままリビングで眠ってしまったようだ。朝の十時だった。起き上がれない。
「朝だ! 朝も終わりかけてる! 昼に近づいてるぞ!」
「眠い……」
「俺だって眠いよ。朝飯どうする? 昼まで我慢する?」
「……深川君って朝に産まれたの?」
 寝ぼけていたわけじゃない。何も今質問しなくてもいいことだった。でも今なら訊いてもいいかと思った。知りたかったから。
「そうだよ。早朝に産まれたんだってさ」
「そうなんだ。いいね」
「何がよ? 朝早くに大変だったって散々言われたよ。そういうあなたは春に産まれたの?」
「僕は……」
「うん」
 思い出そうとしなくても名前の由来は覚えてるけど何しろ眠くて眠くてゆっくりと口を動かした。
「僕は冬至に産まれたんだけど、冬至って知ってる? 冬至って一年で夜が一番長い日でね、その日の夜に産まれたんだって。十二月の夜って、ただでさえ寒いでしょ。それが特別長いから寒くないようにって。あと、思いやりのあるあったかい子になるようにってお父さんが付けてくれた」
「素敵じゃん」
「僕も気に入ってる」
 知りたかったことも知れて、話してるうちに少しずつ頭もすっきりしてきたので体を起こした。それでもやっぱり眠い。目をこすりながら僕たちは江の島へ向かう準備を始めた。