情熱冷めるまで #12
江の島の後、家から近くのスーパーで買い物をした。昨日食べられなかった肉野菜炒めを食べたがる僕の要望を深川君は聞いてくれた。
「肉どんだけ食べる?」
「いっぱい!」
「他に必要なもんある?」
「お菓子も買おう」
初めて来たはずのスーパーなのに深川君はどこに何が置いてあるのか知っているように動き回る。僕は彼の後ろをついて行った。
買い物を終えて家に着いてすぐ調理に取り掛かる。昨夜のスープよりもずっと早く完成した。僕も包丁の扱いが昨日より上手くなった気がする。深川君は山盛りの肉野菜炒めの他に具沢山の味噌汁を作ってくれた。味も量も文句なし。満腹になった。深川君が持ってきてくれた野菜もかなり減った。
今日の皿洗いは深川君が洗って僕は拭く。
「夏休みに学校行く日あるか?」
「部活で行くよ」
「『三銃士』どうよ。楽しく進んでるかね?」
「うん。楽しいよ」
「良かった」
演劇部に入って僕はほんの少しくじけた期間がある。部活に出ることは嫌ではない。やりがいはあるし実際に楽しい。心配することは何もない。だけど深川君の気遣いはありがたかった。
「深川君は? 夏休み、学校来る?」
「富士山があるからね」
「順調?」
「ぼちぼちでんなぁ」
僕は富士山の完成を心待ちにしている。制作中の絵も見てみたいけど邪魔だろうし文化祭当日までのお楽しみだ。きっと傑作に違いない。
「どうして富士山を描くことになったの?」
「あー……学校から富士山が見えたんだよ。昼休みに。そしたら三人そろって山に魅入られたというか……なんか、信じてみたい気持ちになったんだよ」
「信じる?」
「うん。上手く言えないけど偉大な力を……」
「わかるなぁ」
「わかるの⁉」
深川君の皿を洗う手が止まる。
「え? うん。富士山って大きくてきれいだもんね。……そういうことじゃない?」
「いや、そういうことだよ。そうなんだよ」
うんうん唸りながら深川君は皿の泡を洗い流した。
食後の後片付けを終えて再び別行動になった。先に深川君が風呂に入り、僕は父の部屋の本棚を見ていた。小さい時から父の本は自由に読んでいいと言われている。僕もそこまで多く本を読むわけではないので父から本を借りたことは指で数えられるくらいしかない。
本棚から一冊を探しだして自分の部屋に戻り少し読んだ。十分くらい経つと深川君が風呂から出たような音が聞こえ「風呂上がったよー」と大きい声で知らせてくれた。僕が着替えを持って一階へ降りると彼はもう作業部屋へ行ったらしかった。
湯舟に浸かってる間、深川君が来てからの約一週間を頭の中で整理した。
一日目に深川君と両親と姉とバーベキューをして、二日目は二人で鎌倉を歩いた。三日目の今日は江の島。明日の夕方には深川君が家に帰る。明後日、僕は一人で過ごす。その次の日に家族が帰ってくる。
母は自分たちが帰宅するまでゆっくりしていってくれと言っていたが、深川君のお母さんはそれ以上の外泊を認めてくれなかったそうだ。合宿なら一週間でも二週間でも許してくれるけど、友達の家に一週間も入り浸るのは許してもらえない。気にしなくていいとこちらが言ってもこればっか仕方ない。きっと深川君のお母さんの感覚が普通だ。深川君は帰る。明日は出かける予定はない。だって課題を進めたいだろうし。
「深川君」
声に出すと彼の名前は浴室に響いた。
僕は風呂から上がって部屋のベッドに寝転がりながら本の続きを読んでいた。あと数ページで読み終えそうだという頃に深川君が部屋に来た。十一時を過ぎていた。
「課題終わった?」
「いや、手直しとか家帰ってからやることになりそう。でもお陰さんでかなり集中して進められた。そろそろ寝ますか?」
「僕、深川君が絵を描いてるの見るの好きなんだ」
彼はきょとんとして「何が?」と言った。
「何か絵描いて」
「え? 何? 今から?」
「ヒツジの絵を描いてよ」
「ヒツジ?」
僕のベッドの上に置いてある本に気づいた彼はぼんやりしていた表情を笑顔にした。察してくれたようだ。
「わかった。わかったよ。クロッキー帳取ってくる」
作業部屋から持ってきたトートバッグからクロッキー帳を出して深川君はまるっこいヒツジをささっと描いた。
「かわいいね。こういうのよく弟さんに描いてあげるの?」
「小さい頃は。今は全然」
すると深川君はクロッキー帳と鉛筆を僕に差し出した。
「羊なんて描いたことない……」
「いいから描いてみな」
深川君の描いたヒツジの隣にペン先を置いた。あまり深川君のヒツジを見ないように恐る恐る線を引く。まずは角から。一分もしないうちに棒の刺さった唐草模様が完成した。
「羊じゃなくなった……」
「お前が羊って言えば羊だよ」
「僕も絵の練習しようかな」
絵は不慣れだから下手なのは当然だけど深川君のヒツジとこうも違うのは脳のせいなのか、目のせいなのか、手のせいなのか。歌の練習と違って繰り返し描いても上達しないかも。
「あ、じゃあさ」
深川君はトートバッグの中から別のクロッキー帳を取り出した。ヒツジを描いたいつも彼が使っているクロッキー帳よりもかなり小さいサイズだ。
「これあげる。気が向いた時に描くといいよ」
「これ新品? もらっていいの?」
「うん、全部のページ埋めてみな。日付も書くと後で見返すのおもしろいよ」
「ありがとう。僕きっと深川君のヒツジに負けず劣らずかわいい羊を描いて見せるよ」
「羊はもういいだろ」
羊は僕の一つの目標になった。もっとましな羊を描けるようになろう。
「深川君はこういう絵を描いてみたい! っていうのないの?」
描けないものなんてないのかな。でも芸術を学んでる学生として何かしら理想や目標があるだろう。
深川君は考えていた。難しい質問をしてしまったかな。ちらっと僕を見て更に悩んだ。そして、口ごもって彼は僕の名前を言った。
「絵になると思ってたよ。ずっと」
その声は僕の中で鳴った。