Gold can Stay #01

 深川ひのでは特別区の東部に生まれ、高校時代の先輩後輩だった両親のもとでのびのびと育ち、八歳で兄になった。それと同時に家の中でも外でも大暴れしていた少年は消えた。
 母の妊娠が判明して弟が生まれるまで父方の祖父母の家で世話になることが増えた。両親と離れる日々は満足できなかったが、祖父母から兄になる準備が必要なのだと言われ納得していた。兄になれることはすごいことだと繰り返し聞かされ、洗濯のやり方や簡単な調理法を教わった。思いの外、器用で分別のある孫に祖父母は感心し、おだてることはせずに彼を冷静に評価して本心から褒めた。
 少しずつできることを増やした。近所のコンビニでの買い物やバスの乗降を一人でできるようになったのもこの頃だ。
 弟の生まれた日もそうだった。急いでバスに乗った。予定よりずっと早くに産気づいた母は一人で病院へ運ばれた。そのことを授業中に知らされたひのでは教科書も体操着も置いて空のランドセルを背負って病院へ向かった。
 バスに乗っている間は何もできずもどかしい思いをした。降りてすぐ病院に続く坂を駆け上がる。途中でへとへとになり足が止まる。顔を上げるとギラギラした見事な夕焼けが広がっていた。眩しかったこの光景は現在でも鮮明に覚えている。
 この日からひのでは家にいることが増えた。放課後に友達と遊んでもすぐに帰宅した。幼いながらに自分が家にいることで何かしらの助けになればいいと考えていた。
 案の定、両親は弟を中心にてんやわんやだった。祖父母から教わったことでひのでが役に立つことも多かった。そして彼なりにたっぷりと小さな弟を慈しんだ。

 弟の世話や親の手伝いに慣れた頃には外で遊ぶことがめっきり減り、家ではよく絵を描いていた。一人でも友達とも家族ともできる遊びだったのでのめりこみ頭角を現した。
 かつての暴れん坊は中学生に成長し、美術部に入って絵画コンクールで何度か入賞するようになった。
 これに気をよくした両親や教師たちの計らいによって美術を学べる高校への受験勉強が始まった。叱られることの方が多かったひのでも大人たちに褒められて悪い気は全くしなかった。
 ひのでには美術だけだった。得意科目は五教科にはなく、体育もできるくせに疲れるからと手を抜くような少年だった。
 やがて美術予備校へ通うようになる。ここには様々な年齢の人がいて誰もが真剣だった。それだけで彼の気持ちは重たくなった。向上心を持たなくてはいけない。上手くならなくてはいけない。様々な劣等感に潰されながらも描き進める。そうすることしかできないのだった。

 沈んだ季節を耐えた彼は美術科のある高校に進学が決まった。滑り止めの一般の高校以外にも美術を学べる高校を複数受験したが合格した学校はここだけであった。
 受験した中で最も通学が楽な高校だった。美術科のある特殊な高校なので地方からの入学者も多い。そのため学生寮も完備されていた。ひのでは少し興味を持った。しかし金銭的なうしろめたさがもう十二分にあったため親に入寮の希望は冗談でも言い出せなかった。
 青い学生服に袖を通す。中学の学ランとは違った重さがあった。美術科のネクタイはクロスタイで、ワンタッチではなく自身でピンを使って留めるタイプだった。ひのではこれを気に入っていた。なかなか思ったところにピンが刺せなくて入学式までに練習した。
 高校には美術科の他に普通科、音楽科、体育科の四コースがある。美術科のクラスに男子は三分の一ほどしかいない。見るからに美術肌の変わった人物は見当たらず、気が良さそうな人ばかりでひとまず安心した。
 毎年、美術科の一年生には共同作業と呼ばれる課題が出される。三人一組になって一つの作品を作る。作品はなんだっていい。三人で協力し完成させ、秋に行われる文化祭に出展するまでが課題だ。
 ひのでは長山という女子と高谷という男子のいる八班の班長になった。彼らとはできるだけ大きい富士山の絵を描くことに決まった。
 二人といると必ず毎日何かしら絵を描こうと前向きに考えられた。予備校に通っていた頃とは違っていた。

 入学してしばらく経ったある日、ひのでは運悪く担任教師の手伝いを頼まれてしまった。二人で荷物を美術科の校舎の隅にあるプレハブ小屋まで運ぶ。するとどこからか聞こえる歌声がひのでを捕らえた。
「音楽科の子だね」
 足を止めた彼に教師は目線で声が漏れ出てる場所を示した。
 プレハブ小屋のすぐ向かいは音楽科の校舎だった。窓から一人の男子生徒が歌っている姿が見える。歌ったかと思えば止めてまた頭から歌いなおしているようだった。その度に男子生徒は体の向きも変えた。顔はよく見えなかった。
 覗き込もうとしたが教師が先を行くので諦めて彼女のあとに続いた。
 教師によると、このプレハブ小屋は少し前までは教室として使われていたという。今は使わないけどいつか使うかもしれない物をしまっておく物置になってしまった。
「夏は暑いし冬は寒くてデッサンも座学も集中できなくてこの様よ」
 小屋はダンボールばかりだが石膏像や画板、イーゼルなど授業で使われていたであろうものも揃っていた。ホワイトボードが三枚も重なって置いてある。
「ねぇ、先生。俺、ここ使わせてもらっちゃ駄目ですか?」
「空き教室なら他にたくさんあるよ?」
「ここがいいな。今の季節はちょうど良さそうだし落ち着くしいいBGMもあるし」
「そうだなぁ」
 交渉した結果、いくつか条件を出して教師は許可を出した。美術科の出城が一人の生徒の根城となった。