Gold can Stay #07

 ある日の夕方、ひのでは取り込んだ洗濯物を母と共にリビングで畳んでいた。手を動かしつつ、テレビ番組が伝えるニュースに耳を傾け母と二人で驚いたりうなったりする。いつものことだ。
 ところが今日は普段よりもリビングの空気が柔らかく感じだ。ひのでにも上手く言い表せない。台所からうっすら準備中の夕飯が香っているせいか。母の機嫌が良さそうだからか。
 全てが気のせいかもしれない。しかし話すなら今だ。そう判断して、ひのでは高校の友人が夏休みに家へ泊まりに来ないかと誘ってくれたことを母に話した。
 昔から母は長男が友達を家に連れてくることも、友達の家に行くことも快く思っていなかった。だからいつも校庭や公園で楽しく暴れていた。友人宅でテレビゲームなどで一緒に遊んだ経験はほとんどない。
 そういうこともあって反対されるかもしれないとひのでは観念していた。相手はどんな子なのか、どこに住んでいるのか、何日お邪魔する予定なのか、相手の親の許可は取っているのか。細かく母に尋ねられる。
 まず「音楽科の子で」とひのでが言うと母は身構えた。そう、程度はわからないけれどお坊ちゃんなのだ。それから相手の親には今の自分と同じように許可を取っている最中だと伝えた。
「じゃあ、親御さん次第ね。向こうがいいよって言ってくれるなら行ってもいいよ」
「いいの?」
「いいよ。行きたいんでしょ?」
「行ってやってもいいかなってくらい」
「何様〜」左右の靴下を合わせて二つ折りにして母は言った。「あんた、部活やってないのに音楽科の友達がいるんだね。どうやって知り合ったの?」
「え……っと、歌ってるところに居合わせて、歌、上手いなぁって……」
「ナンパしたんだ」
「そういうことになるんかなぁ」
 ひのでは畳み終わった自分の服の山を母から受け取った。
「予定合ったらうちにも遊びに来てもらいなさいよ」
「えっ、いいの? 昔だったら絶対に駄目って言ったじゃん」
「あの頃はにしびも赤ちゃんで家に友達呼んでうるさくしないでほしかったし、あんたも手がつけられないやんちゃ坊主だったからよその家に預けられなかったよ。我慢させちゃったけど今はもう高校生だもん。分別つくでしょ」
「信頼を得た」
「そうよ。よそ様の家で悪さしたらただじゃおかないからね。礼儀正しくね」
 三郷の家族が家にいるのは最初の一日だけだということは黙っておいた。

 次の日の放課後、ひのでは前々から考えていたプレハブ小屋の大掃除に取り掛かった。担任教師との約束もあって大雑把な清掃は時折していたけれど長期休暇が始まる前に一度しっかりやろうと決めていた。思い立ったが吉日。本日、決行した。
 物置だから最初からきれいな場所ではなかった。人が出入りするようになって湿っぽさや埃っぽさは減ったけれど、物置は物置だ。梅雨の空気は残っていてカラッとした夏の心地よさはない。ただむっと暑いだけだった。
 掃き掃除をしていると三郷がやって来た。手伝いを申し出てくれたが箒は一本しかないので断ると手持ち無沙汰だったのか屈んでちりとりを抑える役を買って出た。
 三郷はこのまま拭き掃除もやる気のようだった。プレハブに置いてあるいくつかのバケツの中から最も汚れていないであろうものを選び、外にある水道まで水を汲みに行く。行って戻って来るまでに二人はじわりと汗をかいた。
 同じくプレハブにあった比較的きれいな雑巾を浸す。冷たくて全身に浴びたくなる。さっと窓を一回拭くとプレハブに射してくる光が変わったのがわかった。
「きれいになって気持ちがいいね」
 テーブルと椅子を拭いて三郷は気分良さそうに笑っていた。

 ゴミ捨てと手洗いを済ませ、二人は帰る準備を始めた。
「そうそう、母が泊まりに来てどうぞって。昨日電話して許可もらったよ。やっぱり会いたがってたよ」
 夏休みに息子の友人が泊まりに来ること。そして息子が家族旅行に参加しないこと。自分たちの留守を息子とその友人に任せること。簡単に許してくれたようだった。同じ信頼でもこうも違うものか。
 彼の母が非常識に思えてひのでには不思議だった。放任主義とはこういうことなのか。よほど息子を信用しているようだ。実際にいい子だ。
 三郷はどういう子供だったのだろうか。どんなふうに成長して今の三郷になったのか。ひのでは知りたかった。
「どうすっかなー」
 あれこれ考えていると心ともなく声が出た。手も無意識にクロッキー帳のページをパラパラめくっていた。
「ねえ、こっち見てもいい?」
 三郷の声にハッとしてそちらに顔を上げると彼はひのでのスケッチブックに手を伸ばしていた。不注意だった。
 今まで三郷はひのでが絵を描いているところを何度も見てきた。にこにこと覗いてくる。それでいて描いたものを見せてほしいなど言わない。ありがたかった。しかし頼まれたら見せる。三郷になら。評価してくる先生でも比較してくる美術科の生徒でもない。きっと三郷はすごいと言って褒めてくれる。それでもそのスケッチブックだけは見せてはならないものだった。

「駄目‼」

 必死に手を伸ばし三郷が今にも触れそうなスケッチブックを回収した。心臓がばくばくした。汗が噴き出るのはプレハブ小屋の中が熱いだけじゃない。三郷も驚いた表情をしている。
「その、これ、授業用じゃなくて、ほとんどのページが未完成なんだよね。見られるとちょっと恥ずかしいかなぁ」
 言い訳にも必死だった。
「勝手にごめんね」
「いやいや、俺もなんかでかい声出してすまんね」
 申し訳なさそうに三郷が言うのでひのでもばつが悪くなる。
 この後すぐに担任の先生が豪快にプレハブ小屋へやって来たり三郷が気を利かせて寄り道に誘ってくれたおかげで何も悪いことは起きなかった。

 今日は失敗だった。ひのでは風呂上がりで濡れている髪を扇風機で乾かしながら反省した。送風の強さを最大にする。真正面から風を受けながら、あああと声を絞り出す。
 髪はすぐ乾いて扇風機の設定を強から中に変えて布団に横たわる。床に置いた通学に使っているトートバッグからスケッチブックが飛び出ているのが目に入った。腕を体ごと伸ばして掴む。今となってはどうしようもないページを開いた。
 三郷のつもりだが決して三郷ではない人物が描かれている。ひのでが初めて三郷の姿を見た時に描き始めたものだ。彼の顔はしっかり見えずほぼ想像で描き上げた。
 ひのではこのページを誰にも見せられない。これは誰で、どうして描いたのか。答えられない。こうして自身で見返すのもたまったものではなかった。かといってページを破り捨てることにもためらっていた。
 スケッチブックを閉じてトートバッグの上へ軽く投げる。普段より少し早い時間だったが部屋の電気を消して寝ることにした。
 目を閉じて三郷の顔を思い浮かべる。さらりとした髪に直線的な輪郭、丸い目、しっかりした眉、すっとした鼻、歌う時以外はあまり大きく開かない口。表情はやはり笑顔がいい。そう決めたところでひのではぐっと眠りに入った。