嗄声、ゆくかた

 彼の声。それはもう素晴らしいものだった。
 一声耳に入れれば聞き入ってしまう。歌い終えればもう一度と願わずにはいられない。美しく晴れやかな少年の歌は人々を引きつけた。

 幼い頃から音楽に囲まれ生活してきた彼は小学四年生から六年生まで合唱クラブで歌っていた。コンクールに出場して十分な成績を残すこともあった。
 中学は由緒正しき中高一貫の男子校へ進学した。残念ながらそこには合唱部やコーラス部といった部活動はなかった。なので小学校卒業と同時に母の勧めで地元の合唱団に入った。
 一人で歌うと際立つ歌声は集団で溶け込むこともできた。彼は自分の才に驕ることなくアドバイスをもらえば素直に受け取り糧にしていった。ひたむきに歌と向き合っていた。

***

 中学二年生の夏に彼は風邪を引いた。
 体調は悪くなかったが異変に気づいてしばらくはマスクをして登校した。夏風邪を引くのは馬鹿なのだとクラスメイトにからかわれた。彼は笑って受け流す。演技ができる少年であった。
 数日後、ついに発熱し学校を二日休んだ。その間にしっかり寝て食事も水分も摂ったおかげで熱はすぐ下がった。学校にも行ける。それでも風邪は治らない。

 図書室で納得のいく知識を手にしようとした。治る病名を知りたかった。しかし難解な医学用語のせいで不安は膨れ上がるだけであった。
 保健の先生に相談しようと昼休みに保健室へ向かったこともあった。扉の前で立ち止まるとどうやら中では上級生が手当を受けているようだ。痛みを訴えている低い声が響く。保健室に入る力がなくなり、彼は引き返して教室へ戻ってしまった。

 月に二回ある合唱団の集まりの日が来た。まだ風邪が完治していないので出席するか迷ったが、仲良くしてくれている大学生に話を聞いてもらいたいと思い行くことにした。
 練習は軽い体操から始まる。体は何も問題はない。
 次に発声練習。声は出したくないがそうはいかない。ピアノの音に合わせて皆でラララと声を合わせていく。いつもやっている簡単なことだ。それなのにこの日の彼はできなかった。
 彼の声は的外れな方向へ飛んで行った。素っ頓狂な声のせいで発声練習は止まった。
 一瞬の出来事に彼は混乱した。そんな彼にピアノを演奏する大学生は優しく声をかけた。
「三郷君、さっき挨拶した時にもしかしてって思ったんだけどやっぱり変声期だね。無理に声出したら駄目だよ。しばらくは我慢だね」
 とっくにそれを乗り越えた落ち着きのある声で宣告された。彼は早退を申し出た。

 気づけば涙をぼろぼろ流して街を歩いている。汗も共に流れ落ちた。気持ちとは裏腹に肩で風を切るように歩く彼の顔を通行人たちが見ることはなかった。
 そのまま家に着く。玄関前で涙を擦り拭ったが家族は全員出かけていた。誰もいない家で思い切り泣きわめきたい気持ちであったが邪魔が入る。己の声だ。
 最大の長所が消え去りつつある。いいや、もう失ってしまった。あの声は二度と出ない。
 たくさん褒められてきた高音はすぐにひっくり返ってしまう。低い声さえ思うように出せなくなってしまった。音域がとても狭い。いつも通りに歌えない。
 自分の喉は今どうなっているのか。これから自分の声がどう変化するのか。このまま歌うことさえできないのではないか。
 忌々しい声を押し殺してしばらく泣き続けた。

 いつか自分の身にも降りかかることはわかっていたはずだ。しかし心構えはできずにいた。
 小学五年生の特別授業で変声期というものを知った。大人になるにつれ心も体も変化する。声もそうだ。それは自然なことで何もおかしいことはない。普通のこと。だから受け入れろと言われても難しい。
 授業の後に合唱クラブの女子が言っていた。
「女子にも声変わりあるなんて知らなかった。多分、私もう変わっちゃってるんだよね。知ってたら誕生日が来るごとに自分の声録音してたのに」
 気づかないほどの変化を記録して何になるか。まだまだ幼い彼女の声が大人のものだとは当時の彼には思えなかった。

***

 合唱団の練習から泣きながら帰った日以降、彼は自分から誰かに話しかけることをしなくなった。返事も必要最低限。手短に済ませる。
 突然無口になったせいで親しい友人たちに不思議がられた。軽い夏バテが長く続いていると説明した。とても心配されたが一時的なもので慣れていると言うと納得してもらえた。

 夏休み目前。この授業が終われば多くの者が楽しみにしている長期休暇だ。皆浮き足立っていた。最後の授業をそわそわして受ける者もいれば、しっかりと教師の話を聞く者もすっかり気が抜けきって船を漕ぐ者もいた。
 国語教師はいつも通り授業を進めている。彼は教科書を読む教師の声を聞いていた。おじいちゃん先生は中低音でぽそぽそ話す。若い頃はどんな声だったのだろう。そんなことを考えていると教師と視線がぶつかった。
「ははは。目が合ってしまいましたね。えー、三郷くん、続きを読んでもらえますか」
 彼は言われた箇所を音読した。声を聞かれたくなかった。男子しかいないこのクラスで誰も彼の声をからかったりなんかしない。皆が通る道だ。それでも耳を塞いでいてほしい。こんなみっともない声を出している姿も見ないでほしかった。

***

 いざ始まれば夏休みは退屈だ。友人たちの遊びの誘いも理由をつけて断った。少しずつ進めようと計画していた宿題はすぐに終わってしまった。たまにピアノとヴァイオリンを弾く。合唱団の練習も休み、ほとんど家に籠もっていた。
 彼の母が毎年企画している旅行には大人しくついて行った。今年は阿蘇だ。自然に囲まれ親戚、母の知り合いと過ごした。気分は晴れることなく、やけに窮屈に感じた。

 旅行が終わって数日、合唱団の大学生が家を訪ねてきた。家族が出払っている時の突然の訪問だったので彼は戸惑った。一人で客をもてなしたことなどない。
 とりあえず来客用のスリッパを揃えて出した。リビングまで上がってもらって彼は急いでクーラーをつけ部屋を冷やした。
「三郷君どうしてるかなってみんなの代表で来ちゃった。お母様に連絡したんだ。ご家族も心配してるみたいだよ」
 家族は誰も彼の声や話さなくなったことに触れてこなかった。しかし息子の変化に気づいていないわけがなかった。
「君が変声期を迎えてから鼻歌さえ歌わなくなってしまったってお母様から聞いて……我慢しなきゃなんて無神経に言ってごめんね」
「いえ……」
 歌うことを我慢しているわけではない。上手く歌えない。声がおかしい。だから彼は歌わないだけだ。
「この間、大学でお世話になってる先生の母校にお邪魔したんだ。音楽科のある高校でね。知ってるかもしれないんだけど、これ見てみて」
 彼はその高校のパンフレットを受け取った。聞いたことのある高校名だ。
「いいところだった。授業も部活動も充実していてどの生徒さんも活き活きしてたよ」
 ページを開く。音楽科以外に普通科、体育科、美術科のある大きな学校のようだ。
「また三郷君が楽しそうに歌ってくれたら嬉しい。でも、万が一、どうしても変わった後の声が受け入れられなかったら。そういう時に歌うことを専門にしている人が近くにいたらいいんじゃないかと思って。合唱団は趣味の人が圧倒的に多いから」
 パンフレットのページを捲る手を止めて彼は大学生の顔を見た。何かを伝えたくて言葉を選んでいる必死な顔だ。
「きっと君は音楽から離れられない。これから先、歌っても歌わなくても。ご立派な親御さんがいてそういう環境で生まれ育ったから。きちんと学べば君の歌声はもっと伸びるはずだ。だからこういう学校もあるって知ってほしいと思ったんだ。俺もなれるなら力になるし……無責任なことしか言えないなぁ」
 ここで彼は客人にお茶の一杯も出していないことに気がついた。
「あはは、お構いなく。もうそろそろお暇するよ。……上手く言ってあげられなくてごめんね。俺も経験したんだけど、なるようになってしまって」
 大学生を見送って再び一人になった彼は家の中を見渡した。無音でも、どこもかしこも音楽が溢れている。
 リビングのクーラーを消して自分の部屋へ戻った。このまま苦しい気持ちでいるのは嫌だと心から思った。


*****


 暑さが続く九月。定期試験が終わった。
 試験の結果など気にすることなく、ひのでは暖の絵を描いていた。明日から生徒たちは放課後まで文化祭の準備に張り切ることになる。共同作業や部活で忙しくなる二人は合間を見て短時間でも会うようにしていた。その上、寒くなるとプレハブ小屋の使用許可を出してもらえなくなる。少しでも描き進めるようにしていた。
 試験期間中の最終下校時刻の都合で本日のデッサンは十五分で終えた。集中していた二人の額にうっすら汗がにじむ。
 暖はじっとしていて硬くなった体をほぐしながらペットボトルの麦茶をごくごく飲むひのでをちらと見る。飲み込むごとに動くひのでの喉仏はあまり目立たない。
「ひので君って声変わりどんな感じだった?」
 ぷはぁと溜息をついてひのではペットボトルのフタを閉めた。
「気づいたらこの声になってた」
「違和感なかった?」
「風邪か? くらいは思ったかもな。あんま気にならんかった」
「そっかぁ」
「暖は?」
「中二の夏から半年くらい続いたのかな。変な声だったよ。歌えなくてストレスがすごかった」
 今となってはこの声が当たり前になった。こんなものだ。あんな歌声が出せたのかと思うとやはり寂しくなる。それと同時に疑ってしまう。過去が幻のようだった。現在の歌声に満足しているとは言えないけれどやはり歌うことはやめられなかった。
「昔っから歌うの好きだったんだもんな」
「うん、そう。ずっと好きだった」
「きっと子供ん時の声もいいんだろうな。聞いてみたかったよ」
「……今の声もいいって思ってくれてる?」
「言ったことなかった? 俺は暖の声いいと思ってるよ。ただ歌が上手いだけじゃなくてさ。話してる時のもなんか落ち着くって言うか……なんか、うん。ろ、朗読とかしてみたら⁉ 演劇もいいけど」
「……」
「暖もちゃんと水分取れよ! まだまだあっついからな」
 ひのではペットボトルの残りを飲み干した。額の汗を拭き、後片付けを始める。
 言われた通りに暖もここへ来る前に売店で買ったペットボトルのジャスミン茶を飲んだ。一口飲むと喉の渇きは癒え、華やかな香りが鼻を抜ける。この時、暖は自分の声が今よりもう少し低くなるような兆しを感じた。
「片付け終わった! 帰ろ! もたもたしてたら校門閉められるぞ」
 きっとあの頃の煩慮もないだろう。なるようになるのだと確信して暖はひのでと一緒にプレハブ小屋を出た。