無理にきかないで #06

「おい、少年。おはよう」
 学校へ行く準備をほぼ済ませ、朝食をとって歯を磨き終えた少年は洗面所でヨウコに声を掛けられた。リビングで情報番組を見ながら食事中の両親に聞こえないように少年は挨拶を返す。
「おはよー。思ってたんだけどさ、ヨウコのその呼び方、何?」
「ん?」
「どう見てもヨウコの方が少年じゃん」
「ふん。これは仮の姿。本来のオレはもっとずっと大きいんだ。少年よりも大人なのさ」
 ヨウコは何故か得意げになって話した。
「へー……」
「信じていないな⁉」
「え、じゃあ、なんで今はちっちゃいの? 仮じゃない姿でいればいいじゃん」
 意気揚々としていたヨウコの表情は曇ってしまった。
「そういう決まりなの」
「そうなんだ」
 願い事に関する質問にはきちんと答えるけれどヨウコは自身のことを話さなかった。言葉を濁したり会話を突然終わらせたり別の話題に変えようとする。そういうことが頻繁にあると少年は気づき始めていた。
「ヨウコ!」
「わっ!」
 少年はヨウコを抱きかかえた。ヨウコの見た目は人間でいえば何歳ごろに当たるのか少年はわからない。小学校低学年くらいだろうか。体重も想定できずヨウコの体を思い切り抱き上げてみたけれど力はそんなに必要なかった。
「ヨウコ、俺のこと名前で呼べば?」
「なんで⁉」
「普通は名前で呼ぶでしょ。名前があるんだから」
「呼ばない! お前もオレを呼び捨てにするな!」
「うわ‼」
 ヨウコを抱える少年ごと体が浮く。思わず大きな声を出してしまった。
「どーしたー?」
 異変に気付いた父がリビングから声をかけてきた。
「なんでもなーい! ちょっと制服に水引っかけただけ!」
「ドライヤーで乾かしとけー」
 そっと床に下ろされた少年は無言でヨウコにデコピンをすると脛を蹴られ短く低く呻いた。

 この日、学校から帰ってきた少年の声はいつもより大きかった。
「ただいま!」
「おかえり」
「聞いてよ、ヨウコ! 鳥のフン頭に落ちてきた!」
「あれまぁ」
「洗ってくる!」
 少年は風呂で全身──特に頭を念入りに洗った。
 タオルで髪を拭きながら冷蔵庫のお茶をコップに注ぐ。飲みながらリビングのソファーに座るヨウコの隣へ行く。
「学校終わってさ、友達と駅に向かってたらさ。ボトリと頭に変なの感じたんだよ。そしたら友達が笑いだすし、近くにいる人もこっち見るしさ〜俺、恥ずかしくてさ〜」
 少年の話す様子は興奮していたがヨウコは冷静に彼の話を聞いて相槌を打ってやっていた。
「それは災難だったな」
「だと思うじゃん⁉」
 フンを落とされた少年が呆然とし、友人が大笑いしている数秒間、彼らは歩道に立ち止まっていた。
 そんな二人の目の前に物干し竿が落ちてきた。鈍く響いた金属音は他の通行人たちの足を止まらせたのだった。
「マンションの人が下りてきて謝ってくれたよ。新しいのと古いのを取り替えようとしてたんだって。知らないおばちゃんが落とした人に『あんた! この子に当たってたらどう責任取るつもりなの!』って怒りはじめちゃってお巡りさんも来て大事になっちゃったよ」
 少年はお茶を飲み干したコップの水滴を指でつつく。話しているうちに落ち着きを取り戻していた。
「七階から落とすと物干し竿ってあんなに曲がるんだなぁ」
「君が無事で良かったよ」
「そう思ってくれるの⁉」
「あぁ、まぁ、オレは君の願い事を聞かないと帰れないわけだから……その、死なれたりでもしたら……」
「あー……そうだった……」少年はリビングのソファーに倒れた。「なーんか疲れちゃったよ。夕飯どうしよう。今日も二人とも仕事遅いんだよね」
「今日は料理を作らない日か」
「ヨウコ、何か食べたいものある⁉ 作るよ!」
「オレのことはいいんだよ。疲れているんだろう? お湯や加熱して食べられるやつにしたらどうだ?」
「そうだなぁ。ラーメン食べるか。ヨウコもいる?」
「いらない! オレは寝る。おやすみなさい」
 一瞬にしてヨウコは姿を消してどこかへ行ってしまった。
「なんだよ。ちょっとさびしいじゃん」
 少年は重い体を起こしてお湯を沸かしに台所へ移動した。水を入れたやかんも普段よりやけに重たく感じた。