無理にきかないで #21
木々が赤や黄に染まり始めた。十一月がもうすぐ終わる。
「卒業旅行どこ行きたい⁉ 沖縄⁉ 北海道⁉」
「さっきからこればっか。流石に早すぎるよな? 受験終わってから考えろよ」
「目星付けとこうぜ! どっちがいい?」
パンフレットを広げて友人たちが盛り上がっている。行き先の希望を求められた少年も手に取ってパラパラとページをめくる。
「二月、三月の沖縄って海入れるの?」
「まだ冷たいんじゃない?」
「じゃあ北海道だな! 美味いもん食べよ!」
「その二択しかないの?」
少年はすでに受験勉強の手を抜いていた。やり方を変えて夏休みの途中から上手く怠けるようになった。
酒屋でアルバイトをし、仲はいいけど年に数回しか会わない従弟を水族館に誘い、様々な大学のオープンキャンパスに遊び感覚で行った。
「ねぇねぇ!」
クラスメイトの女子が少年たちに声をかける。
「何ぃ? 大倉ちゃん」
「クリスマス空いてる? クラスでパーティーみたいのできるといいねって則武とさっき話したんだ。まだ何も決まってないけどもし予定なかったら来てよ。一人でも多く集まれば楽しいからさ」
はにかむように大倉は少年ら三人を誘った。
「行く絶対行く!」
「俺も。息抜きしたいよな」
友人たちはためらわずに返事をした。少年が口を開こうとすると大倉と視線がぶつかり彼女はまくしたてた。
「どうかな……⁉ まだ確定じゃなくていいの! 参加人数かるーく把握しておきたいだけ! 当日になって来れなくなっちゃっても忙しい時期なんだし仕方ないと思う! でも、おいでよ!」
「うん、行きたい。俺も数に入れといて」
そう答えると大倉は喜び、友人たちは顔を見合わせた。少年は放課後のことを考えていた。
その日の帰りは学校の図書館棟へ寄った。ここへは料理本を借りに何度か足を運んだ。難しくて最後まで読めなかったが読書をしたこともあった。今日はそのような目的はない。
図書館棟に入るとまず掲示板を見た。今まで全く目を通してこなかった。様々な連絡事項やポスターが貼ってある。
少年は図書館の注意書きを黙読する。大声で話さない、飲食禁止、返却期限を守ること、などなどごく当たり前のことが書かれていた。一つだけ、少年にとって意外な項目があった。
図書館での自習を学校側は推奨していなかった。本を読むことを第一としており、満席の状態で教科書を広げていると読書を目的にしている生徒を優先するよう声をかけると書かれていた。
「へぇ……そうなんだ……」
「何が?」
「わ⁉」
注意書きに頷くと肩の下から声をかけられ少年は驚いた。
「おっす」
「おっす……」
クラス委員の則武が少年を見上げている。少年はほんの一瞬、怯んだ。
則武は小柄な少女だった。近くで見るとより小さく感じた。短い三つ編みのせいか一見大人しい印象を与える。それとは裏腹に彼女の物言いははっきりしていてクラスでは一部の者に恐れられていた。
「何見てた?」
「これ。図書館じゃ長時間の勉強できないって今知った」
「ほんとだ。まぁ、広ーい自習室あるしそっちでやれってことだよ」
「……則武さん、本好きなの?」
「え? 嫌いじゃないけどそんなに読まない。今日はちょっとサボりに来ただけ。……いや、言い方が悪いな。気分転換にね。適当に図書館の中ぐるーって歩いてきた。みんな真面目に見えて私も真面目にやろうと思える」
「へぇ。今日はもう帰る?」
「うん」
「俺も帰ろっかな」
少年は則武と共に校門へ向かった。
今まで何度も往復した学校から駅までの道を友人や部活の先輩、後輩以外と歩くことは初めてだった。だからどうというわけではない。少しだけ駅が遠くに感じただけであった。
「大倉からクリスマスの話聞いた?」
「あぁ、うん。参加希望出しといた」
「そっか。良かった。大倉がもっとクラスの思い出が欲しいって言いだしてさ。付き合ってやってよ」
「友達思い~」
「そんなんじゃない」
「でも、そうだよな。みんなと過ごす時間もうないもん。さびしいよな」
「私もさびしい」
その一言は消え入りそうだった。いつも堂々と教壇に立って話している彼女に似つかわしくない声だと少年は感じた。
「もっと何かできたらなって考えるんだ。うちのクラスは他と比べて全体的に仲良いと思うし」
「則武さんがそうやってまとめてくれてるからってのもあるよ」
「そうかな」
そんな会話をしているうちに駅に到着した。着いてしまえば非常に短い時間だった。
則武の利用路線は少年と同じだが帰る方向は逆だった。度々、ホームのベンチに座って帰りの電車を待つ則武を見かけたことがあった。
「そんじゃ。私こっちの電車なんで」
「うん」
「また明日」
「バイバイ」
則武は電車に乗り込み、席には座らず出入口付近に立ったまま少年にひらひら手を振った。
「バイバイ」
ドアが閉まるとアナウンスが知らせる中、彼女の返した挨拶はしっかり少年の耳に届いた。少年も二、三度優しく手を振り返す。
そして少女の乗った電車はゆっくり動き出す。最後まで見送ることはせず少年も自分の乗るべき反対側の電車で帰宅した。
*
部屋の電気を消す前に机の引き出しの中を確認した。小論文の比ではない時間をかけて書き上げた大傑作が四通しまってある。
彼は遺書を残していた。年末や年始に遺書を書き、病気や事故、そういった気持ちなど何事もなく一年を迎えられたら再び新しい物を用意する。それを毎年の恒例にしている人がいるとどこかで知り参考にしたのだった。
父と母、そして二人の友人に宛てた手紙。これらを新学期が始まってすぐに書いたことにした。推敲を重ねた内容は感謝で埋め尽くされた。
クラスメイトたちには謝意より申し訳なさでいっぱいだった。フレンドリーなクラスだけどなんとも思わない人もいるだろう。だがこれから受験が始まる。悪い影響がないことを少年は願った。
バイト先にはもう顔を出さない。
三度目の水族館はない。
大学には進まない。
卒業旅行には行かない。
クリスマスパーティーには行かない。
明日、学校には行かない。
もう十数分で日付が変わる。布団にもぐって目を閉じる。何度も眠ろうとした。ついに体を起こして暗闇を見つめ少年は明日を思い描いた。
朝が来たら両親は驚くだろう。きっと救急車やら警察やら来るに違いない。学校にも連絡が行く。そのはずだ。しかし――
「ヨウコ、来るのかな」
あと数分で今日が終わる。ぎゅっと膝を抱えて力なく不安を零した。その直後だった。
「お待たせ」
男の知らない声が耳元から聞こえ、少年は飛び跳ねた。驚きはしたものの恐怖心はない。振り返れば少年の頬は男の両手で優しくしっかり捕らえられた。抵抗する隙も与えず男は少年に口づける。少年は身動きが取れず鼻での呼吸さえ忘れてしまった。
「んんう……!」
色っぽいものではない。心地よさに浸る余裕などない。十数秒の間に限界を迎えた少年は空気を求めた。その時、日がまたがり男は許しを出した。
男から離れた少年は汗も涙も涎も手の甲で拭い大きく呼吸しながら叫ぶ。
「ヨウコ‼」裏返り変な声が出る。「急に何するんだ!」
「びっくりした?」
「したよ! 心臓止まるかと思った!」
少年の必死な訴えにヨウコは落ち着いた青年の声でとぼけてみせる。
「あれ? 心臓止まらなかった?」
「え? あ、あれ」
驚きと苦しさでバクバクしているはずの左胸に手をあててみる。なんの動きもない。少年はふとその手を見た。ふっくらと小さい。どう見ても子供の手をしていた。
「なんだこれ」
その声もまた子供のものであった。はっと気がつくとベッドの上にもう一人の自分が横になっている。よく知っている高校生の自分だ。眠っているように見える。確認しようと手を伸ばすとヨウコが遮った。
ヨウコは寝ている少年の肩まで布団をかけ、額に触れるキスをした。少年は思わず目を逸らす。
「あの、ヨウコ……」
「これはおやすみの挨拶」
「そうなんだ」
「さびしくはないかい」
真っ暗だった部屋に目は慣れ、ヨウコの表情が少年にも伝わった。先程までのいたずらっ子のような調子ではない。
「目を見ればわかるでしょ」
ベッドに腰掛ける少年に目線を合わせるようにヨウコは屈んだ。
「暗くてよくわからない」
ヨウコの暖かくも冷たくもない手を少年の小さな手が包むように触れる。
「じゃあ明るいところ行く?」
「うん。もう行こうか」
ヨウコに手を取られ小さい少年はベッドから降りる。身長が縮んだせいか高さを感じた。
瞬間、暗い少年の部屋は白く輝く空間へ変化する。眩しさに少年は思わず瞼をぎゅっと閉じる。
落ちる。落ちる。ジェットコースターとは違う浮遊感が恐ろしい。しかし手の感触に励まされそっと目を開ける。
地面に足が着く。少年はほっとした。甘ったるい香りと火薬の臭いが混ざって鼻先をくすぐった。ここはもしかしたら山の頂なのではと少年は考えた。
「こちらの世界へようこそ」
青年の姿のヨウコが微笑んでいる。陽射しのような光を浴びてヨウコの小麦の髪はちらちら輝く。それに合わせて少年は瞬きをする。少年の胸は確かに高鳴っていた。