雨が降ったら
幼い頃に一度耳にした歌が忘れられない。そのくせ記憶があいまいで鼻歌さえ口ずさめない。
もう一度その歌を聴きたくてJ-POPに詳しい父に尋ねてみるも小さな私のヒントは非常にあやふやで困らせるだけだった。
「女の人が歌っててね、最初がシャラララシャララって鳴るきれいな歌知らない? 楽器はいっぱい使っててちゃぷちゃぷって音が入ってる歌なの」
「ん~…そうだなぁ」
父は思い当たる歌を何曲か挙げてくれたけどどれでもなかった。
私は父から様々な音楽を教えてもらっていた。邦楽も洋楽もたくさん聴いた。母はクラシックの人だから私はそこら辺の人より音楽の知識があると思う。それでもあの歌にはたどり着けなかった。
それから何年も経って、音楽家の両親を持つ私は美術科のある高校に進学して絵を学んでいる。
将来はわからないけど音楽の道には進まないことはほんのり決めていた。きっと向いてないし、そんなに夢中になれない。そのせいでもないけど今は両親とは必要最低限の会話しかしなくなった。
「無視してるの? されてるの?」
「どっちでもない。挨拶はするよ。おはよーとかおかえりーとか」
「それならいいじゃない。良好な仲だ」
「良好かなぁ」
「私は家族ともう二ヶ月も顔を合わせてないよう」
高校に入って一番最初に友達になったこの子は長野県から東京へ来て学校の寮に入っている。家族に愛されてのびのび育ったんだろう。マイペースで甘えん坊だ。
二人でしゃべりながら課題のデッサンを描き進めている。もうすぐ完成する。手は真っ黒だ。
「実はね、あなたのお父様の曲、聴いてみたの。あまり知らなくてさ」
「私たちの年代だと知らない人もいっぱいいるよ。今じゃ楽曲提供の人だしね。どうだった?」
「あなたと声は似てないね」
「父と娘だし似ないよ」
「でも、あなたが男性だったらこんな声なのかな? と思ってお父様の歌声のピッチを変えてみたんだ」
「そこまでしたの……」
「それと、お父様のホームページのプロフィールに血液型がAB型Rh-って書いてあったけど本当?」
「あー…そんなこと言ってたなぁ」
身長以外の情報は正しいんじゃないかと思う。父は一七八センチある身長を一七五センチと公表している。どうしてか小さく見せたいらしい。そんな嘘ついても意味ないのに。
「本当にAB型Rh-なんだね!」
「うん。珍しい血液型なんだっけ?」
「そうだよ。私もAB型Rh-の一族だから、もし万が一、お父様に何かあったら私を呼んでね。反対に両親の血でも足りない大ピンチが私に訪れたら頼らせてもらってもいい? お父様に訊いといてもらえる?」
「おっけー」
監視をさぼっていた先生が戻ってきた。私たちは口を止めて絵を完成させた。
それから数日が過ぎた。木曜日。室岡さんがご飯を作りに来てくれる曜日だ。
室岡さんのご飯は最近になって美味しくなった。昔は薄味で量も物足りなかった。高校生になってジャンクフードとは言わないからもっとガッツリした料理をたくさん作ってほしいとお願いして料理は満足いくものになった。けど変わらず量が少ない。
だから私は学校帰りにコンビニでコロッケや肉まんを買う。私が買い食いしてると知れば室岡さんは発狂するだろう。ささやかな反抗だ。今日は唐揚げにしよう。
レジで会計するとちょうど私の順番でレシートが切れてしまい新人の店員さんが頑張って新しいロールをセットし始めた。その様子を見ながら店内放送を聞いて待っていた。
「そろそろ梅雨の時季。テーマは『雨の日に聴きたい一曲』です」
高校に入って三か月か。早いなぁ。
「一曲目は『鯖をさばく弁護士さん』からのリクエスト──」
くだらないラジオネームにくすっとした。いけない。私の笑みは安くない。下ネタにも笑わないようにしてる。
店員さんが設置し終えて出てきたレシートを受け取った。満杯の不要のレシート入れに押し付けるように置く。ちらっと振り返ると四人のお客さんが列を作っていた。
早く唐揚げ食べたい。さっさと店を出ようとする私の足をストリングスのユニゾンが止めた。
これは。知ってる。シャラララシャララ。誘われているような、もう消えてしまうような。遊園地の出入り口みたいな夢の音だった。長いこと私の頭付近を不安定にふわふわ浮いて離れなかったメロディ。太古の記憶がしかと呼び覚まされた。輪郭がしっかりして合致した。また会えた。
アーティスト名とタイトルは最初に紹介されて聞き逃した。リクエストソングは二曲目になってしまった。
私は聞き取れた一部の歌詞を頭で繰り返して唐揚げを食べながら走って急いで帰った。
家に着いてすぐ歌詞を検索した。数曲ヒットした。どれもそれっぽいタイトルだ。どれだ。
いらだちを覚え、一旦落ち着こうと努める。深呼吸。一曲ずつ調べる前にコンビニの公式サイトから店内放送のラジオのページを開いてみた。
「今週の放送」を見ると予想通りにリクエストソングが紹介されていた。
一曲目
鯖をさばく弁護士さんのリクエスト まなかくろえ/雨が降ったら
おあぁ! 鯖をさばく弁護士さん! 鯖をさばく弁護士さんが雨の日にこの曲を聴きたいと思ってくれて嬉しい! コンビニのラジオ番組にリクエストを送ってくれてありがとう! 私もお腹を空かせていて良かった!
ヘッドフォンを装着して聴いた。そうそう、この曲。大昔に出会ったはずの、ついさっきコンビニで聴いたイントロ。きれいだ。間奏のマリンバとハープの響きがなんだか不思議なハーモニーになってどんどん水中に沈むようだった。ちゃぷちゃぷ。これも正しい記憶だ。
多くのアーティストにカバーされ続けていたこの楽曲のオリジナルは二十二年前のものだった。別れを歌っている。死別なのか捨てられたのかわからないけど相手をずっと忘れらずにいる。雨が降ってきたら傘を一本持って自分を迎えに来てほしいという内容で、歌詞の主人公は相手が来ないことをわかっていても待ち続けている。本当は天気なんか関係なく会いに来てほしいのだ。曲が進むごとに歌声とストリングスが徐々に熱を帯びるように強くなる。いよいよ雨が降り始める。それでも待っている。執念だ。
歌唱のまなかくろえが作詞作曲を担当していた。調べるともう亡くなっている。この曲を発表した六年後に三十歳の若さで死んでしまったらしい。私はまだ生まれてない頃だ。
小柄でかわいらしい容姿の人だった。少女って感じ。歌声も見た目に合って愛らしい。幸せなラブソングが似合うだろうに一番ヒットしたのはやっぱり「雨が降ったら」のようだ。みんなギャップにやられたのかな。無理だけど会ってみたかった。サイン欲しい。実在する人物だと確認したい。
数時間私はずっとこの曲を聴いた。そしたら頭の中で小さい頃に思い浮かべてたイメージと今現在受けた情景が溶けあった。急いでクロッキー帳に書き殴りした。
「名曲から名画が誕生してしまうな……」
ラフが仕上がって満足したのでまなかくろえの詳細を調べる。
神奈川県出身で水泳やサーフィンが得意。AB型。蟹座。みかんが好き。背が低いことを馬鹿にされたせいで男女問わず長身の人を見ると身構えてしまう癖があった。
中学生の頃から作曲を始める。高校を中退して事務所に拾ってもらう。ソロデビューまで漕ぎつけたけどなかなか売り上げは伸びない。
社長の意向でバンド活動を進められる。メンバーとの共同での楽曲制作に納得し許諾。バンド結成からほどなく爆発的に人気が出ると彼女のソロ時代の曲も注目されて最後にリリースされた「雨が降ったら」が特に話題となる。
その半年後に電撃結婚。
「相手はドラムスと作曲を担当していたメンバー──……これ……」
父の名前だ。まなかくろえは二年間だけ私の実父と結婚していたらしい。
今度は父を検索した。こんなことするの初めてだ。一番最初に出てきた有志によるまとめサイトを開く。
婚姻歴が書かれていた。二回結婚している。父がまなかくろえと別れて三年後に彼女は亡くなり、それから二年後に父は母と結婚した。長女誕生ってのも書かれてる。私だな。
聞かされてない。もしかしてすでに話してもらった? 聞いたら忘れないと思う。無神経に前の奥さんどんな人だったのって訊いちゃいそう。そんな小さい時だった? 子供が小さい時にこういう大事なこと話すか? 普通忘れちゃうよ。そもそもこれって大事なこと? 普通のこと? ただの離婚? いちいち後妻の子に言うことではない? 絶対に話すよね? 母は知ってるのだろうか。知ってるか。ネットで事実として語られてるし。いやネットに真実とかないだろ。
「こんなことあるんだ…」
放心した。「雨が降ったら」がリピート再生され続ける自室でしばらく情報を入れることを中止した。
数分後、冷静になってまた色々読み始めた。よせばいいのに歌詞を考察するサイトで「雨降は元旦那が彼氏だった時の歌」など書かれているのを見てしまった。
曲から受けた幻想的な世界は崩壊して、さっきのラフ画も行き場をなくしてしまった。もうどうすりゃいいんだ。
どうして話してくれなかったんだ! そう言って怒ってもいい? 怒るようなこと? 私には関係ない? 私が生まれる前のことだし相手は死んでるし。私が二十歳になったら話してくれた? ずっと言わないつもりだったのかな。
父を詰めるにしても突然この話をしてもいいものか。嫌な思いをさせるかな。たわいない話題から自然とまなかくろえの話に移せないだろうか。そんなに器用じゃない。ここ数年は父とはおしゃべりしなくなっちゃったし。どう話しかけようか。
ベッドの上でごろごろしてあれこれ考えてると室岡さんに夕食ができたと呼ばれた。
今日はハンバーグだった。嬉しい。けど小さいの二つだけだった。あと五つくらい食べられる。三角食べしないと叱るくせにハンバーグと白米の割合がおかしいだろ。雇い主の娘を叱るな。何様だ。
室岡さんはデザートにプリンを作ってくれていた。
「これもうないの?」
「一つですよ。本当にお嬢さんは食いしん坊なんだから。だからお父さんが健康的な食事を用意するよう私に頼むんですよ」
木曜日だけじゃないか。そもそもあなた父のなんなんだ。気づいたらうちでご飯を作る人になってたけど要望に応えないならクビにすべきじゃないか。
昔から木曜は父も母も仕事で遅くなるのが確定してるから私を一人にしないようにこうして室岡さんに来てもらってるんだろうけど私ももう高校生だ。自分のご飯くらい自分で調達できる。父に室岡さんを解雇するように話そうかな。
私の食事が済むと室岡さんはささっと後片づけをして帰った。
二十一時になる前に両親が帰ってきたのを自室で察知した。私はずっと部屋で「雨が降ったら」を流していた。
どうしようか。この歌をきちんと知って、まなかくろえを知って、まなかくろえと父が結婚していたことも知ったんだんだけど何か私に言うことあるかと喧嘩腰で行くか。もっと無邪気な雰囲気で尋ねるか。
「雨が降ったら」の「あなた」は本当に父なのかな。気持ち悪いけどそれでもいい歌だ。好きだなぁ。
彼女の望む傘の下の二人だけの小さな世界は夢になってしまったのか。
口ずさんでみる。難しい音程だ。激しくなる最後なんか声が出ない。カラオケで思いっきり歌ったら気持ちいいだろうな。
ぼそぼそ歌って喉が渇いた。お腹も空いた。一階へ降りてコーラでも飲もうと台所へ行くと風呂上がりの父が冷蔵庫からプリンを取り出していた。びっくりした。一瞬、泥棒かと思った。
「室岡のプリン美味しいなぁ」
室岡さんは冷蔵庫に三人分のプリンを残してくれていたようだ。両親と私にもう一つ。
「お母さんは食べないって言ってたから二個食べちゃえば?」
「でも食後に一個食べたから……」
「じゃあ、悪くなる前にお父さんが全部食べちゃおうかな」
「私が食べる!」
リビングのソファーに座り父とプリンを食べた。コーラも注いだ。
「甘いもの食べると血糖値が上がるなぁ」
「エネルギーになるねぇ」
普通に会話できてる。この調子でいけるのではないか。
「……母はもう寝たの?」
「うん。今日は疲れたってパンかじってシャワー浴びてすぐ寝たよ」
「そっか」
私は私が父の前妻に興味を持ってることを母に知られたくなかった。秘密に触れようとこそこそ悪いことしてる気分。それでも好奇心は止められない。
「あのさ、私、父に訊きたいことがあって」
私は一つだけ食べ終えたプリンの皿をテーブルに置いた。
「ん?」
「………」
何から言えばいいんだっけ。真っ白だ。もっとシミュレーションしとけば良かった。
「どうした?」
「あ、と、ええっと……」
「もしかして学校で何かあった?」
「え?」
「学校で嫌なことされたり変なこと言われたり……」
「違う! 違うよ! 友達も先生もいい人ばっかだから!」
「本当に?」
「本当! 毎日楽しいよ! 勉強も頑張ってるし!」
「そっか……」
言い淀んだりしたから父に心配をかけてしまった。学校にはむかつくやつもいるけどそれは許容範囲。高校生活は順風満帆だ。先生は厳しくも優しいし、友達も愉快な子が多い。
「…そうそう! この間、友達がAB型Rh-って言ってて──」
今夜は諦めた。もう夜も遅いしね。残りのプリン食べてコーラ飲んで歯を磨いてベッドに入りましょう。寝る前の一曲はこちら。鱈をたらふく平らげるさんからのリクエスト。まなかくろえ「雨が降ったら」。
じきに梅雨の季節。それまで今日みたいに世間話に花を咲かせられるようになろう。インスピレーションを受けた絵も完成させよう。梅雨がやって来ればきっときっかけになってくれるはずだ。そう信じて目を閉じた。夜に聴く「雨が降ったら」は明るい時間よりテンポが速かった。