アットアワードラマクラブ 第四幕 Ⅱ

 第七場

 【第一幕 第二場】

「『ですが、彼女よりもっと若くに母となった人もいますよ』」
 昨日すっ飛んだ台詞をパリスは言えた。あまりにも嬉しそうな顔をして。おかしい。言えて良かったな。そう言ってやりたい。
 しかし、まだ劇は始まったばかり。この場面のキャピュレットはにやけた表情をしない。穏やかに、厳しく。
「『咲くのが早いと散るのも早いですぞ。わしも子供たちには先立たれ、残る楽しみはあの子のみ。ジュリエットが唯一の望みです。パリス殿、本人に言い寄って娘の心をお掴みなさい』」
 今夜開かれるパーティーにパリスを招きそこでジュリエットを口説くように言う。この段階では娘の婚約者を勝手に決めないからまだいい父親だと思う。


 【第一幕 第五場】

 ロミオたちはキャピュレットのパーティーにもぐりこんだ。すぐにティボルトが憎きロミオを見つける。
「『叔父上、敵方のロミオです。今宵の祝宴を愚弄しようと来たに違いありません』」
「『まぁ、いいだろう。放っておきなさい。紳士らしい立ち振る舞いをしているようじゃないか。この家で危害を加えることは許さないよ。だから我慢しなさい。知らん顔をして。わしの意思だ。尊重するならもっと楽しそうな顔をしなさい』」
 ティボルトは今にも目の前のキャピュレットさえ殺してしまいそうな表情をする。
「『そのしかめっ面をやめてくれ。祝宴にふさわしくない』」
「『いいえ、ふさわしいのです。あんな野郎が来ているのですから。俺は我慢できない』」
 憎しみともどかしさを隠さないティボルトに対してキャピュレットも優しく諭さない。
「『我慢しろと言っている! わしがしろと言ったならするんだ! この家の主人はわしだろう⁉ それとも貴様か⁉ この大勢の来客がいる中、乱闘を起こしたいのか? 信じられん!』」
「『ですが叔父上! これは屈辱です!』」
「『馬鹿馬鹿しい!』」
 キャピュレットはティボルトに怒りながらも客人を丁寧にもてなす。家長は大変だ。この直後、娘は運命の相手と出会う。


 【第二幕 第二場】

 誰もがなんとなくでも知ってる名場面がやってきた。
 バルコニーが大急ぎで用意される。大道具の担当たちの力作だ。美術科の先生の指導の下、安全性を第一にした造りになっていて柵にはツタや小さな花が飾られている。
「『ああ、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの?』」
 演劇部一同固唾を呑んでロミオとジュリエットを見守っていた。この台詞で客席の空気も変わるように感じる。昨日の公演でもそうだった。
「『お父様をお父様と思わないで! 家名を捨てて! それができないなら……せめてわたくしを愛すると誓って。そうすれば、わたくしもキャピュレットの名を捨てましょう』」
 ジュリエットの願いと誓言。オーディションではどうなるかと思ったけど稽古を重ねて良くなった。まだあどけない少女のいじらしさと勇敢さが感じられる。


 【第三幕 第一場】

 修道僧ロレンスの協力で密かに結婚したロミオとジュリエット。
 その後、ベンヴォーリオ、マキューシオ、ティボルト、ロミオと若者たちが集合する。いよいよ俺が一番好きなシーンだ。
「『ティボルト。猫の王様。出るとこ出るか?』」
「『俺にどうしようって?』」
「『猫の王様の持つ九つの命のうち一つをいただきたいんだが、そちらの出方次第じゃ残る八つも叩き潰してもいいかな。剣を抜きな! 早くしないと俺の剣が貴様の耳にお見舞いするぞ!』」
「『いいだろう』」
 マキューシオとティボルトは剣を構える。そこへロミオが止めに入る。ジュリエットの家の者であるティボルトとは闘いたくないのだ。
「『マキューシオ! 剣をしまってくれ!』」
 ロミオの制止は聞き入れてもらえず二人は切り合う。
 何度も何度も殺陣の練習をしていた。努力は実った。二人の動きと音を合わせるのに何時間かけたんだろう。稽古では清水も進藤さんもグロッキーになっていた。少し羨ましかった。
「『っ! やられた……!』」
 二人に割って入ったロミオの腕の下からティボルトはマキューシオを刺す。ここをどう見せるのかも何パターンも考えて一つずつ試していた。
「『畜生! くたばっちまえ! どっちの家もだ! くそ !もう駄目だ……あいつは無傷で逃げたのか……⁉』」
 ティボルトは去り、ロミオとベンヴォーリオが駆け寄る。マキューシオは苦しそうに体を押さえて屈んだ。
 ここでマキューシオが本当に血を流しているように見せるかも議論されていた。清水は血糊を使いたがった。俺もその方がいいと思った。衣装係たちはあまり乗り気ではなかったみたいだけど、小道具を担当する部員も挑戦したいと言った。しかしステージが汚れる可能性が高いと先生は判断しこの演出は却下となった。
「『しっかりしろ! 大した傷じゃない!』」
「『そうだなぁ! 井戸より深くないし、教会の入り口ほど広くもない! でも堪える……効くよ……』」
 マキューシオは肩で大きく息をしながら冗談を言う。
「『明日、俺に会いに来てくれよ。そうすりゃ墓から挨拶してやる。あーあー、俺も死ぬのか。……くたばれ! モンタギューも、キャピュレットもだ!』」
「清水くん絶好調だな」
「上手いねぇ」
 袖で部員たちが呟いたのが耳に入った。
「『なぁんで割って入ったんだよ……貴様の腕の下からやられたんだぞ……』」
「『どうしても止めたくて……』」
「『ああ、もう。ベンヴォーリオ。そこら辺の家に連れてってくれ。気が遠くなる。ええい! ペストにでもかかってくたばっちまえ! 貴様たちどっちの家もだよ! とうとうこの俺を蛆虫の餌にしやがって! くそ……! 両方の奴ら…………』」
 原作ならここでマキューシオとベンヴォーリオは退場するが、俺たちの劇ではその場でマキューシオの死が確認される。ベンヴォーリオの腕の中で力なく横たわるマキューシオを見てロミオは悲しみと怒りで震えるという流れだ。
「『……あぁ、ロミオ。マキューシオは死んでしまったよ』」
「え⁉ しんじゃったの⁉」
 突如として観客席のどこからか驚きの声が飛んできて第四の壁を破壊した。一瞬、講堂全体の時間が止まったようだった。一、二秒だったかもしれない。それが信じられないくらい長かった。ベンヴォーリオもロミオも何も言えなくなってしまった。パリスが台詞を忘れた時とは違った汗が俺から出た。
 だけど機転を利かせたマキューシオは一度だけ蘇って腕のみ動かし小さな観客に向かってピースした。
「あ! いきてる!」
 観客たちがくすくすと笑う。舞台は予定になかった暗転をする。一拍入ったことで全体の焦りがリセットされたようだった。
「清水~~~! よくやった~!」
「どうなるかと思った……良かった……」
「タイミングおもしろかったな」
「録画したの早く見たいねぇ」
 舞台袖の部員たちは興奮を隠しきれない小声で、舞台上で再び息絶えている清水を褒めに褒めた。

 【第三幕 第五場】

 ロミオがティボルトを殺すシーンでは例の観客は何も言わなかった。幼稚園、小学校低学年くらいなのかな。それまで静かに劇を見ていた子が声を上げたんだ。よほどびっくりしたんだろう。
「さっきのごめんなさい! 台詞言えなかった!」
「俺もびっくりして頭真っ白になっちゃった……」
「大丈夫大丈夫!」
「切り替えていきましょう」
 袖にはけてきたロミオとベンヴォーリオはへとへとになっている。
「誰かの妹か弟だったのかな~?」
 先程とは打って変わっていつものへらっとした顔で清水も戻ってきた。
「お疲れ!」
「お~! 里ちゃん! うわ~~~」
 清水が用意していたタオルを渡す振りをして、汗だくになってる清水の顔や頭をかき混ぜるように拭いた。セットしていた髪もぐしゃぐしゃにしてやった。もう清水の出番は終わったからいいだろう。そう思ったが最後にカーテンコールがある。タオル越しに髪を戻すように清水の頭を撫でた。清水はけらけら笑う。

 劇は進む。ヴェローナを追放されたロミオと別れて悲しみに暮れるジュリエットは次の木曜日にパリスと結婚するように命じられる。
 彼女の中からロミオは去っていない。パリスとは結婚できないと母に訴えると、そこへ父キャピュレットが来る。
 俺は深呼吸をする。キャピュレットは乳母と共に舞台へ出る。
「『ありがたい話だけどお受けできないと言うのです。馬鹿な子。お墓へ嫁入りすればいいわ』」
 妻は結婚を了承しない娘にあきれ、夫へそのことを告げる。
「『な、なんだって? どうした? 何が嫌だと言うのだ? ありがたいとは思わないのか? 名誉だと思わないのか? あのパリス殿がこんな不束な娘の婿になってくれるよう骨を折ったのを嬉しいと思わないのか⁉』」
「『名誉だとは思いません。ありがたいとは思いますわ。嫌なものを名誉には思えませんけれど、わたくしを思ってのお話だと考えればありがたいです』」
「『なんという屁理屈だ! 名誉⁉ ありがたいだの、ありがたくないだの! 名誉には思えない⁉ なんて生意気な!』」
 クレッシェンドを意識した。声も感情もだんだん強く。
「『お父様! この通り! 膝をついてのお願いでございます。たった一言、我慢して聞いてください』」
「『黙れ! この親不孝のろくでなしめ! いいか、木曜に教会へ行け! 行かないなら二度とわしに顔を見せるな! 黙って、口答えせず、何も答えるな! ああ、指がむずむずする!』」
 指を動かし思い通りにならなかったことを思い出す。
「『妻よ、たった一人の子しか授からなくてお前と一緒に神様を恨んだこともあったが今となってはこいつ一人さえ多すぎるくらいだ。呪いか、災いか』」
 これまでいっぱいあった。頑張ったけど駄目だったこと。やっぱり直近のことが一番力がある。あんなの見せられたら、もしもの架空の未来を想像しても太刀打ちできないと思い知らされる。
「『死んでしまえ、役立たずめが』」
 ずっと黙っていた乳母がなだめるも無駄。キャピュレットは乳母の言うことも聞こうとせず殴りかかる勢いで黙らせた。
「『お前がわしの娘なら、わしはお前をあの伯爵にやる。そうでないならお前は首をくくってもいい。乞食になって飢えてのたれ死んでもよかろう。我が子とは思わないし何一つお前にはくれてやるものか。よく考えろ。わしは嘘を言わないからな』」
 あの小さい子がキャピュレットを怖がってくれたら嬉しい。一人でも多くの観客がジュリエットがかわいそう、なんてひどい父親だと思ってくれたら俺は演劇部に後悔はない。それで全部報われる。

 袖に戻るまでに自分の視界がぼやけていることに気づいた。目にうっすら涙が溜まっていた。
「水飲む?」
「え? あぁ、うん」
 全ての出番を終えてスタッフに回っている進藤さんがタオルと俺の名前が書いてあるペットボトルを持ってきてくれた。
「声掠れてる。汗も拭いて」
「ありがと……」
 付け髭を外す。タオルを受け取って目に当ててから顔全体を押し当てる。最初に軽くメイクしてもらったけど取れてるだろうな。
「ちょっと早口になりすぎたかな」
「大丈夫。いい勢いだった」
「そっか」
「叔父上、やり切った?」
「……そうかも。でも最後まで出番あるし、こういうのはまだ取っておきたいんだけど」
「うん。まだ早いよ」
 大あくびをすると人間は目から涙が出るものだろう。同じようなものだ。ぱっと拭ってしまえるくらいの水滴。それでも泣いてるところを人に──女子に見られるのは恥ずかしいもんだ。
 原因は不明だけど清水みたいに俺は人前で大泣きできないと思う。そういう演技もできそうにない。でもわからない。キャピュレットの怒りのように徐々にストッパーが外れていく感覚を知ってしまった。いつか涙が止まらない日が来るのかもしれない。そんなの怖すぎる。



 第八場

 【第五幕 第三場】

 俺のせいかわからないけど最後のクライマックスに向けてみんな稽古の時より早口になっていった。長引くよりはいいことだが予定外のことなのでタイムキーパーに時間を意識するように言われたが加速している。
 ジュリエット仮死作戦はロミオに上手く伝わらず、ロミオはパリスを殺し、毒を飲み、ジュリエットは目覚め、短剣で胸を突く。モンタギュー夫人も亡くなってる。両家は心から悲しみ和解を誓ったのでした。
「『世の中に不幸な物語は数々あるけれど、このロミオとジュリエットの恋に優るものはないだろう』」
 大公の台詞で締められた。残された者たちのむせび泣く声が響く。徐々に明かりが落とされて真っ暗になると手を叩く音がわっと鳴った。キャピュレットは客席寄りである前方にいたのでその威力をもろに受けた。
 急いで袖に戻る。
 昨日は役者全員がすぐに横一列に並んで礼を言うだけだったが、今日は千秋楽ということで数人ずつ登場して挨拶することになっている。初めての試みだった。劇が予想より数分早く終わったことで時間に余裕が出て良かった。
 再びゆっくり照明がつく。音楽も明るく楽しいものに変わる。アンサンブルから次々と出てきて最後にロミオとジュリエットが登場して深く頭を下げた。
 一年生公演の時とは全然違う。会場も観客数も違うんだから当たり前だ。こんな大きな拍手知らない。
 知ってしまったのにもう俺たちの劇は終わる。ひどいもんだ。ここに演劇部のみんなで立つことはもうない。チームヴェローナは今日で解散だ。それなのに終わらないでほしいと心から願ってしまった。

 レッスン室へ戻ると後輩たちが花を抱えて待ち構えていた。
「三年生の皆さん! お疲れ様です!」
 二年の学年リーダーが進藤さんの前へずいっと出る。
「部長、ティボルト素敵でした!」
「……ありがとうございます」
 進藤さんはそっとブーケを受け取る。これを皮切りに二年が三年に花を渡していく。
 俺には副リーダーの子がくれた。かわいらしい小さいブーケだ。赤と青と紫の薔薇を細かい白い花が囲んでいる。真ん中にメッセージカードが刺さっていて「里中副部長 ありがとうございます」と書かれている。これを三年全員に用意したのか。
「すごい! みんな、お金大丈夫だった?」
「一年生たちも協力してくれましたから! 大丈夫です!」
「そっか~! 本当にすごい! 嬉しい! ありがとう!」
 俺も気になっていたけど清水が無邪気に野暮なことを訊いていた。
「あの……っ」
 花のプレゼントの受け渡しの興奮も冷めやらぬ中、少し震えた声が俺たちを黙らせた。
「ええと……みんな、今日まで、本当に……」
 進藤さんがブーケを優しく両手で抱いて全員に向けて言う。いつもと違った歯切れの悪い彼女の言葉にみんな耳を澄ませた。
「無理なこともたくさん言ったと思います。最後のカーテンコールなんて練習ほとんどしてなくて……私……」
 部員たちの前でこんなにたどたどしく話す進藤さんは初めてだ。
「みんな、最後の最後まで、本当に、本当にありがとう」
 今にも泣き出してしまうんじゃないかと俺は心配になったがふっと微笑んだ。ここまで柔らかい表情をしてる彼女を三年間見たことがない。いつだってキリっとした顔をしてる人だった。
「みんなと一緒にやれて良かったです」
「っ光栄です‼」
 二年の学年リーダーが叫びに近い大声で言った。副リーダーは驚いてた。俺もびっくりした。
「二人は次の部長と副部長?」
「そ、うなんですかね⁉」
「先輩方はどう決めましたか?」
「私たちは自分たちでそのまま続けちゃったからね」
 進藤さんが俺を見る。
「そうだね。反対の声もなかったしエスカレーター式でするっと」
 今の二年も二人に文句はないようだった。この場で次期部長副部長が決まって四人で握手した。
「近いうちに引き継ぎしましょう。色々覚えてもらうことがあるから。よろしくね」
「はい!」

 進藤さんはすぐ次の現場へ向かった。後夜祭だ。
 文化祭の一般公開が終わった後に毎年ダンスタイムがある。音楽科の生徒たちによる生演奏で、それに進藤さんは参加するらしい。
 演奏は大広場で行われる。放送もされるから校舎の外にも内にも音楽は流れる。逃げ場がない感じがする。
「あ、良かった。里中くん、いましたね」
 かなり遅れて先生が来た。部員はほとんど解散しているのに何してたんだ。
「何かありましたか? 進藤さんなら後夜祭の準備に行きましたよ」
「いやいや。里中くんに。はい」先生は手にしている大きな紙袋を俺に渡す。「これを君に渡すよう頼まれました」
 中には大きな花束が入っていた。
「え? ……誰からですか?」
「脚本・翻訳の先輩から」
「ほぃ……⁉」
「里中くんに直接渡したがってたんだけどね。残念だけど新幹線の時間があって舞台が終わってすぐに帰っちゃいました」
「観に来てくれてたんですね……」
「うん。感謝していたよ。見つけてもらえて嬉しいって。本人もすっかり忘れていたらしいから」
「そうでしたか……」
 先生と互いに三年間ありがとうと簡単に挨拶をして別れた。
 なんとなく、本当はその先輩が自分で訳した『ロミオとジュリエット』を自分たちでやりたかっただろうと感じていた。完成が間に合わなかったのだろうか。それとも部員たちに却下されてしまったのか。今となってはわからないけど、彼らはやらなかった。あれだけ翻訳の努力が残ってるのに。本人も忘れてしまうんだ。そんなものか。
 俺は紙袋から花束を取り出した。後輩たちから贈られたものと違って様々な種類のカラフルな花がふんだんに束ねられていて重い。豪華だ。一日に二つも花束をもらうことはこの先あるのかな。貴重だ。得難い経験。とても強烈だ。

 レッスン室のスピーカーから陽気な音楽が流れ始めた。ジャズってやつなのかな。これからパーティーが始まるといった合図にふさわしい。タイトルは知らないけど絶対に誰もが耳にしたことのある有名な曲だと思う。
 マイムマイムやジェンカなどの親しみあるフォークダンスの音楽に変わる。次にペアになって踊るような曲調になる。もちろん生徒全員が全曲踊るわけじゃない。さっさと家に帰った人もいる。大勢でわーわーやるのが終われば校庭の隅で駄弁る人もいる。
 踊る人たちを空き教室から見てる人もいる。
「愛の告白だ~~~!」
「ひゅー! よくやるぅ」
 清水と一緒に窓から下を覗く。大勢に囲まれている二人がいる。見事に恋人同士になれたようだ。
「モンタギュー夫妻も付き合うことになったんだって。里ちゃん知ってた?」
「え⁉ 水面下でそんなことが……」
「濃密な時間を過ごしますから演劇ではよくあることだね~」
 流れてくる音楽が昔の洋楽に変わったのがわかった。さっきからずっと聞いたことあるのにタイトルも作曲家も歌手も知らない曲しか流れない。
「これ知ってる!」
 そう言うと清水は歌い始める。清水は相変わらず歌が上手い。まだちょっと子供っぽい声が伸びやかで耳に馴染む。正しい英語の歌詞かどうか俺にはわからない。所々ごまかしてるけど発音もそれらしく歌っている。
「なんで歌えんの?」
「家族が好きで僕もよく聴いてたから、意味はわかないけど歌えるよ」
「耳がいいんだなぁ」
「英語の先生にも言われた! でも聞き取るだけで何言ってるのかわからないんだよ。リピートアフターミーって言われて繰り返すのが得意」
 へらへら笑って清水はまた歌い出す。数時間前、あんなに泣いてたのに。なんだったんだろう。俺は訊けなかった。
 清水って何を考えてるのかわからない時がある。でもすごく素直な人だとは思う。俺の十八年で出会った人の中で一番裏表がない人間かもしれない。誰に対しても態度が変わらないし、楽しい時は本当に楽しそう。わからないことをわからないと言える。
 演技は上手いのに嘘は下手。あまり賢くないけど演劇のことになると俺は敵わない。今もこうして呑気に歌ってる。羨ましいんだかそうでもないんだか不思議な気持ちになる。
 そのうちアップテンポの曲に変わった。清水の歌も終わった。
「この曲も知ってるかも! 歌えないけど! 僕たちも踊る⁉」
「えー……元気すぎる……俺、今日はもう動けないよぉ……」
「ん~……じゃあねぇ……」短く悩んで清水は思い付きを言う。「『外郎売』言おう! 覚えてる?」
「『外郎売』⁉ おぼ、覚えて……」
「はい! 行くよ! 『拙者親方と申すは、御立会の中に御存のお方もござりましょうが、お江戸を立て二十里上方』」
「『相州小田原、一色町をおすぎなされて、青物町を登りへお出なさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪いたして圓斎となのりまする』」
 言えるものだ。いつも声に出さず頭で唱えてた。口は言葉に追いついている。スラスラ言える。一年生の頃に覚えさせられた先さえ言えるようになってる。鼻濁音も。
 流れてる音楽はもう耳に入ってこない。清水と合わせるのに必死だった。三年間そんな感じだったな。俺たちたくさんお互いのわからないこと教えあったよな。理解して自分のものにできたかは置いといて。悪くなかった。楽しかったよ。
 そう考えるともっとこの三年に続きがあってもいい気がする。もったいない。だけど、それもきっと『外郎売』を言い終えるまでだ。心残りがあっても俺は物事の終わりを受け入れたい。多分そういう性分だ。五時になったら俺は明日も遊べるもんねって自分に言い聞かせて帰る子供だったから

【終】



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